〔 概略 〕
〔 明治前の状況 〕
<『野母崎町郷土誌』、野母崎町企画課、昭和61年、326頁>には、「1647年 正保4年」のこととして「この年佐賀藩がつくった「肥前一国絵図」に端島は佐賀領としている。これは、このころ無人島でも一応の領有権を主張していたからであろう。また、天領で末次平蔵長崎代官の管地であった高浜村では、端島・中の島ともに高浜村の所属と思っていた。このころ、天領側では初島(はしま)の文字を使用している。その後、端島(初島)・中の島の帰属問題でしばしば争われた。」の記載があり端島以外にも中ノ島についても帰属問題が存在したことが分かりますが、「1772~1780年 安永年間」のこととして「江戸で双方了解の上、初島を高浜村の所属ときめたが、その後の紛争を防止するために高浜村では、この島に一切手を触れないことにした。」との記載で中ノ島の状態迄は分かりません。しかし、「1772~1780年 安永年間」時の蚊焼村(佐嘉領)と高浜村・野母村(御料)が取替した村界地図と思しき図面の
「蚊焼村江高浜村野母村より之図」 では、「初嶋(端嶋)」以外にも「中嶋(中ノ島)・下モ二タ子嶋(下二子島)」も御料の場所とはなっていますが、
当該図の凡例項目 にある
「双方ヨリ手入不致分并道」 の場所となっていて、中ノ島も端島と同様に高浜村の所属とはなりますが、双方一切手を触れない島になったように思われます。なお、「蚊焼村江高浜村野母村より之図」とほぼ同じ内容の図面として
「安永2年2月25日 野母.高浜村より蚊焼村へ取替し村界地図」 も存在しています。
〔 明治以降の簡易年表 〕
1873年 | 明治6年 | ●明治6~7年、峯眞興が中ノ島に来島して地質調査(p.193) |
1875年 | 明治8年 | ●試掘の許可を得る(p.193) |
1877年 | 明治10年 | ●2月、試錐を開始し、4月深さ52mで上八尺層に着炭(p.193) ○旧深堀藩士族 峰真興は中ノ島で試掘し、「高島ニ譲ラサル良質ノ炭脈ヲ発見」(p.57) |
1878年 | 明治11年 | ○旧深堀藩士 峰真興は、内務省勧商局へ開発資金10万円の融資出願 政府は融資許可、条件は利子6分、期限1年、勧商局管理 さっそく事業開始、「外国人ノ教師ヲ雇入レ工事ニ取掛リ山頂切下ケ海面築出シ器械据付ケ家屋建築ノ上立坑開鑿ニ取掛リ」(p.57) |
1879年 | 明治12年 | ●1月、立坑開削に着手(p.193) ○7月、立坑の深さ22間(約40米)まで掘り下げたところで海水出水、大小のポンプ数台で排水にあたったが、これに日数を要し、予想外の出費となった(p.61) ○11月21日、峰は政府融資の保証書作成 中ノ島炭坑の新築家屋9軒を抵当とした(p.61) |
1880年 | 明治13年 | ●立坑の深さ69mで着炭(p.193) ○5月、立坑の深さ約60mで上層に着炭、採炭にうつらず最下層にむけ掘進継続 「将来事業の盛大を期し、かつ堅固を保つには下層より採炭を始め上層に及ぶことこそ至当なる事に相考え候」(p.63) ○6月、政府商務局へ15万円の追加融資依頼(p.63) ○9月、上層から4間(約7m)掘りさげたところで中止(資金欠乏のため)(p.63) ○11月、政府は追加融資依頼を却下(p.63) |
1881年 | 明治14年 | ○4月、融資依頼の歎願書提出(p.66) ○5月、印刷局1万円、造幣局4万円交付(p.66)
○7月、立坑排水着手、ポンプの故障などで失敗 機械を借りて再開したが、暴風激浪のため石垣、家屋、機械を損壊、排水中止(p.66) |
1882年 | 明治15年 | ○7月、長崎県令は峰真興の要請で、石炭代前払の形で融資した造幣局への石炭納期の延長を申入れ(p.69、70) ○9月、ポンプをとりかえ再開、順調(p.70) |
1883年 | 明治16年 | ●16年2月出炭開始(p.193) ○10月23日、大蔵卿は県令に峰の差押を通告(p.78) ○12月、渡辺聞櫓は、峰が差押処分になっても、あとを続けさせてくれとの歎願書を県令あて提出(p.78) |
1884年 | 明治17年 | ○3月8日、高島より中ノ島受取 峰は拒否(p.80)
○3月30日、高島より南部球吾、検査にいく(p.80)
○3月、差押後、払下げ問題で峰と大蔵省の対立
大蔵省松方は三菱に払下げようとしたので、峰は、旧藩主鍋島らに払下げよと中ノ島でがんばっていた(p.80)
○8月、(二子島、中ノ島)三菱、2石炭鉱区の払下げを受ける(p.80)
●9月、峯は大蔵省への借金が返済できず、三菱に払い下げられた(p.193)
○9月5日、中ノ島炭坑(高浜村)が競売、5万円で三菱が落札(p.81) |
1886年 | 明治19年 | 1月増借区願を提出(●115頁) |
1888年 | 明治21年 | ○ガス発生で安全灯550個
「過日来瓦斯気発生し従来ノ並ランプニテハ危険ニ付、保安灯ヲ用ユヘキ準備トシテ、クラニーランプ五百個、デビーランプ五十個ヲ送付シ九日ニ至リ、ランプ室落成シ、ランプ方七人火番四人ヲ転務セシム」(p.95) |
1889年 | 明治22年 | ●日本礦業會誌の中ノ島紹介によると、「長崎港ニ於テ目下重要ニシテ世人ノ望ヲ後来ニ置クモノハ中之島炭坑是ナリ。該坑内炭層ノ景況ヲ視察スレハ第二ノ高島タラン事明ケシ」とあります(p.193) |
1890年 | 明治23年 | ●新立坑を開削(p.193) 2月増借区願を提出(●115頁) |
1893年 | 明治26年 | ●5月20日、坑内出水の増大により廃坑(p.193) |
1962年 | 昭和37年 | ◎4月1日、中の島公園完成(p.120) |
参考文献
●『高島炭砿史』三菱鉱業セメント(株)(1989)
○前川雅夫 編著『炭坑誌-長崎県石炭史年表』葦書房(1990)
◎『高島半世紀の記憶』高島町(平成11年)
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中ノ島炭坑は、1884(明治17)年に、入札の結果、大蔵省から三菱が払受けますが、『三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、三菱鉱業社史、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、頁数69』によりますと
「ところで中ノ島の借区は,払受け当時は官有地1万坪で狭小であった。岩崎久彌は明治19年1月には,増借区255,043坪7合4勺(官地)を出願し,更に23年2月に海底官有地10万坪余の増区により,借区358,886坪1合5勺の増坪を出願し,3月許可されている。しかし24年11月に減借区を出願して,25年10月1日172,651坪の借区を許可された。」
の記載がありますが、明治23年の「海底官有地10万坪余の増区」は上記年表の「新立坑を開削」の時期と重なるようで、これから事業拡大と思われし時期である24年11月の減借区の理由が気になるところです。ちなみに、明治26年に廃坑となった中ノ島を取得(増区)するための「増區ニ係ル鑛區訂正願」(明治廿九年十二月廿四日)における
中ノ島の拡大図 には、新立坑と思しき場所に竪坑口がない点が気になります。
なお、「中ノ島の払受けは岩崎彌之助の名で行われた。しかし元深堀藩主鍋島孫六郎と岩崎彌太郎との間に「中ノ島石炭坑譲渡シ約条書が存在し,岩崎彌太郎より元価で炭坑を鍋島孫六郎へ譲渡するが,その場合石炭は岩崎に売渡すこと,経営は高島に準じて操業し,決して高島より以上の賃金を支払わないこと,炭坑転売は岩崎彌太郎の承諾を得ることなどが払受け以前に取交されていた。また鍋島は岩崎に払受金を立替えて貰ったので,払受金5万円のうち内金として2万円を岩崎彌太郎に返済したが,残りの3万円の資金の調達に失敗した。そこで資金の目途がつくまで岩崎が経営することとした。しかしこのころよりコレラが高島に流行して出炭が急減する事態が起り,彌之助の方針は鍋島家の経営代行から中ノ島の永久支配を目指すようになった。そこで鍋島に炭坑引取りを促したが,感情的対立もあり,交渉は進まなかった。ついに翌年6月20日岩崎より内金2万円の返却を受け,鍋島は中ノ島経営を断念したのである。」
との記載があり、当時の状況が変わっていれば鍋島家が経営を行っていたこととなるようです。
閉山後の中ノ島については、<三菱社誌刊行会、『三菱社誌 十八』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、八〇~八二頁>には
「中ノ島炭坑ノ稼行ヲ廃シ改メテ全島試掘ヲ官ニ請フ」の項目があり、明治26年6月中における社長岩崎彌之助並びに副社長岩崎久彌と三菱炭坑事務所長山脇正勝とのやりとりが記載されていますが、その中には
「一旦廃坑届ヲ差出更ラニ全島下層石炭之試掘ヲ出願シ将来ニ縁ヲ繋置候而ハ如何御座候哉」や
「一旦廃業之上改メテ試掘出願之事ニ可致右出願ハ廃業届ト同時ニ差出候方可然ト被存候處圖面調製之手續モ有之候ニ付廃業届並試掘出願之委任状二通御送付致候間御方ニ於テ御取計相成度御答旁得貴意候草々謹言」の文言が含まれています。
一旦、廃坑の憂き目に遭いますが、中ノ島の海底に眠る石炭の未知の可能性がそうさせたのでしょうか?。結局のところ、明治26年の炭坑閉山後は中ノ島からの採掘はなく、後年、
二子島(二子坑)からの採掘となるようです。
〔 借区試掘開坑願 〕
《借区試掘開坑願指令本紙 明治8年》 <長崎歴史文化博物館収蔵>
標記資料に収められている「借區開坑願」で、「私儀長嵜縣管下肥前国彼杵郡高濱村字中之嶌并二子嶌ニ於テ石炭坑発見致候ニ付別紙圖面場所官有地五千坪借區開坑被差許度此段奉願候以上」と書かれていて、申請者は「長﨑縣管下肥前国彼杵郡深堀村住士族 峯眞興」で日付は明治八年となっています。
《借区試掘開坑願指令本紙 明治8年》
左資料に続く頁で、最後に「工部卿 伊藤博文」の名と印鑑があります。
《借区試掘開坑願指令本紙 明治8年》 <長崎歴史文化博物館収蔵> 右上資料から数枚後にある頁です。冒頭の資料と同様のものと思われますが、右上には朱書きで、文字が追加されています。
《借区試掘開坑願指令本紙 明治8年》
<長崎歴史文化博物館収蔵>
「借區開坑願」の別紙圖面です。二島が描かれていて、どちらが、中之嶌、二子嶌との記載はありませんが、どちらも官有地二千五百坪の記載となっています。
《借区試掘開坑願指令本紙 明治8年》
<長崎歴史文化博物館収蔵>
「別紙圖面」の裏の部分になります。左側文章には「一金千圓 右之金資本ニ相備肥前国彼杵郡中之嶌并二子嶌ニ於テ石炭坑坑開業仕度奉存候以上」とあります。
なお、『三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、高島炭砿史、三菱鉱業セメント(株)、1989、209頁』には、「二子島借区は,明治17年に中ノ島とともに三菱に払下げられた」との記載があります。
〔 長崎県下中ノ島炭坑ノ図(Plan of Nakanosima) 〕
<独立行政法人国立公文書館所蔵 公文附属の図・一九八号 長崎県下中ノ島炭坑ノ図>
図の右端には文字が書かれています。はっきりと判別できない文字もありますが、おそらくは下記のとおりではないかと思います。
Plan of Nakanosima Scale 2,seen=11.Ken H.M.gower may 20th 1880.
中ノ島は、明治12年(1879)1月には立坑開削に着手され、明治13年(1880年)には立坑の深さ69mで着炭となっていますので、「Plan」とはなっていますが、ほとんどの施設が実在し稼業していたものと思われます。
ちなみに、明治12年11月の日付で作成された
「中島炭坑設業費拝借金ニ対スル抵当家屋目録」には九軒の建家が記載されています。
<独立行政法人国立公文書館所蔵 公文附属の図・一九八号 長崎県下中ノ島炭坑ノ図>
図面の右に行くほど、炭層が深くなっています。
<独立行政法人国立公文書館所蔵 公文附属の図・一九八号 長崎県下中ノ島炭坑ノ図>
左の図面から竪坑付近を拡大してみましたが、竪坑櫓は、まだ描かれていません。
<独立行政法人国立公文書館所蔵 公文附属の図・一九八号 長崎県下中ノ島炭坑ノ図>
炭層柱状態図でしょうか。左図が浅部、右図が深部のものとなるようです。
<独立行政法人国立公文書館所蔵 公文附属の図・一九八号 長崎県下中ノ島炭坑ノ図>
左の炭層柱状態図最上部の拡大図です。
〔 埋立情報 〕
《水面埋築原簿 明治22年1月起》
| <長崎歴史文化博物館収蔵 資料番号:県書 16 10-1 1> |
左の表は、標題資料に掲載されている「西彼杵郡高濵村字中ノ島」の箇所になりますが、私が知り得ている中ノ島埋立の唯一の情報になります。
昔の資料のため旧字体の文字も使用されていて、私の転記ミスの節はご容赦をお願いいたしますが、資料には「明治卄二年五月四日許可」・「廿三年十一月限」・「使用 工場」・「明治卄四年八月廿日下渡」・「明治廿四年十月六日登記済」と思しき記載もあります。
ついては、中ノ島炭坑には
明治23年(1890年)に新立坑を開削 の記録が残っていることから、当該埋立箇所は「新立坑」に関連する場所である可能性もあるのではないかと思いますが如何でしょうか?。
〔 建物情報 〕
<写真は、長崎歴史文化博物館収蔵:「中島炭坑ニ係ル貸下金一件 明治12年~同17年」より、許可を受けて掲載>
「中島炭坑ニ係ル貸下金一件 明治12年~同17年」(長崎歴史文化博物館収蔵)には、
明治12年11月の日付で作成された「中島炭坑設業費拝借金ニ対スル抵当家屋目録」がありますが、そこには
第貳号、第参号、第四号、第五号、第六号、第七号、第八号、第九号、第十号の九軒の建家が記載されています。
<写真は、長崎歴史文化博物館収蔵:「中島炭坑ニ係ル貸下金一件 明治12年~同17年」より、許可を受けて掲載>
「中島炭坑ニ係ル貸下金一件 明治12年~同17年」(長崎歴史文化博物館収蔵)にある「御進達願」(
明治16年)という書類の中には、「別冊建物書入官納追加証」があり、抵富品の文字と十九軒の家屋の大きさ等が記入されいて、建家図面もあります。
十九軒の家屋の大きさ等と図面ついては下段をご覧願いますが、建物書入官納追加証と建家図面では数値の相違もあります。
区 分 | 種 類 | 表口裏幅 | 奥行 | 坪 数 |
第弐番 | 瓦葦平造建家 | 共七間 | 三間半 | 弐拾四坪五合 |
第三番 | 屋根板葦平造建家 | 共七間 | 弐間半 | 拾七坪五合 |
第四番 | | 共五間 | 弐間半 | 拾弐坪半 |
第五番 | | 共五間 | 弐間半 | 拾弐坪半 |
第六番 | | 共六間 | 三間半 | 弐拾壱坪 |
第七番 | | 共六間 | 三間半 | 弐拾壱坪 |
第八番 | 屋根板葦 | 共七間 | 三間 | 弐拾壱坪 |
第九番 | | 共十間 | 三間 | 三拾坪 |
第拾番 | | 共八間 | 三間 | 弐拾四坪 |
第拾壱番 | | 共五間 | 四間半 | 弐拾弐坪五合 |
第拾弐番 | | 共三間 | 六間 | 弐八坪 |
第拾三番 | | 共一間半 | 二間 | 三坪 |
第拾四番 | | 共二間 | 六間 | 拾弐坪 |
第拾五番 | | 共二間 | 四間 | 八坪 |
第拾六番 | | 共四間 | 六間 | 弐拾四坪 |
第拾七番 | | 共三間 | 三間 | 九坪 |
第拾八番 | | 共二間 | 壱間半 | 三坪 |
第拾九番 | | 共三間 | 壱間半 | 四坪五合 |
第弐拾番 | | 共三間 | 二間 | 六坪 |
「中島炭坑ニ係ル貸下金一件 明治12年~同17年」(長崎歴史文化博物館収蔵)の「別冊建物書入官納追加証」より 【行の見出しはHP作成者にて追加記入】
<写真は、長崎歴史文化博物館収蔵:「中島炭坑ニ係ル貸下金一件 明治12年~同17年」より、許可を受けて掲載>
建家の大きさや明治十六年十一月十五日の文字等が記載されています。
<写真は、長崎歴史文化博物館収蔵:「中島炭坑ニ係ル貸下金一件 明治12年~同17年」より、許可を受けて掲載>
上記図面の部分図です。建物の幅や奥行き及び面積が記載されています。
〔 操業時光景(明治時代) 〕
《中の島(端島より見る)》
<写真は、町勢要覧昭和48年4月より高島町の許可を得て転載> 昭和48年の町勢要覧に掲載されている写真です。写真の中央には竪坑櫓や煙突が写っています。ちなみに、中ノ島炭坑での出炭期間は明治16~26年となります。
《長崎港外端島炭坑》 <所有絵葉書> 絵葉書のタイトルには
端島炭坑との記載がありますが、上段の古写真
《中の島(端島より見る)》とほぼ同じ光景で、端島より見る
中ノ島炭坑の光景になるかと思います。なお、あくまでも私見ですが、この頃に撮影された写真では中ノ島と端島の情報が入れ替わっていた写真が他にもあったようです。
なお、上段の古写真と絵葉書では、煙突から出る煙の向きや手前の岩場の形等に違いがあるようなので、両者は同じ写真ではなく、別に撮影された写真のようですが、絵葉書では岬の全体が写っていて、岬の半分ぐらいまでが埋め立てられていることが分かりますが、そのことは下図の
《第五課事務簿 鉱山ノ部》の図と一致するようです。
ちなみに、絵葉書の表面ですが、通信欄はなく「万国郵便連合端書」と思しき記載があります。
〔 自然災害情報 〕
「中島炭坑ニ係ル貸下金一件 明治12年~同17年」(長崎歴史文化博物館収蔵)の中にある、「中島炭坑ノ儀ニ付御届」(明治十四年十月二日)には、概ね下記のような自然災害情報も書かれていて、当時の島の設備等について大変参考になりました。ちなみに、同じ災害かどうかは不明ですが、
明治14年7月のこととして「暴風激浪のため石垣、家屋、機械を損壊」の記録も残っています。
- 午前2時頃より、東南の風起こる。
- 8時頃に至り、風力漸く強く、激浪の為海岸ポンプ圍家を吹き流す。また、海岸の火薬庫を壊す。
- 9時頃に至り、風力弥強く、海岸石垣の中腹を毀し其の左右が崩れたため、倉庫内にある諸機械を安全の所へ運送 石垣は流亡、甚だ危倹につき縄数箇をもって倉庫を繋ぐ
- 10時頃、怒濤一擲此を奪い去る。
- 11時、山頂の家屋1棟を吹き倒す。
- 午後1時頃、海岸近く囲置きし枠木及び小轆轤を流失する。
- 2時頃、風力益強く、激浪は漸次に海岸の石土を洗い、遂に予備の横釜を装置したる其烟路を破り釜を洗い去るの勢いにより、島中の衆力を尽くし、漸く之を繋ぎ留める。
- 3時頃、勘場の傍にある家屋1棟を倒し、勘場も半壊に及び米酒等の諸品は過半を流失する。
- 3時半頃、南風に変わり激浪次第に海岸を洗い去り、事務所も半壊に及ぶ。
- 4時半頃より、風力少し衰える。
- 7時頃、漸く静まる。
〔 図面・模型 〕
《第五課事務簿 鉱山ノ部》
「長崎県下中ノ島炭坑ノ図(独立行政法人国立公文書館所蔵)」と同じ状態にするため、図を回転し掲載しています。
ここからは、中ノ島炭坑閉山後の情報になります。
図は、明治26年に廃坑となった中ノ島を取得(増区)するための
「増區ニ係ル鑛區訂正願」(明治廿九年十二月廿四日)にある付属図の一部で、
「長崎県下中ノ島炭坑ノ図」よりも後年の中ノ島の姿です。民地の野母崎側位置や竪坑口がはっきりと描かれていますが、描かれている竪坑口は一カ所しかなく、それも新立坑と思しき場所ではない点が気になります。ちなみに、上図に描かれている竪坑口があったと思われる現在の場所については、
こちら をご覧ください。
<出典 : 「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名高嶋、測量年1901(明34)> 明治34年測量の地図から、中ノ島の部分を切り抜きました。
中ノ島、閉山後の地図となりますが、採礦地の地図記号が描かれています。
《高島礦業所採掘区域及炭層柱状態図(部分)》 中ノ島部分を切り出しました。中ノ島には舊坑の記載があり、堅坑が記載されています。
《高島炭鉱模型》 <所蔵: 九州大学 記録資料館> 模型の説明には「原作は明治42年作」との記載があります。
中ノ島の左側部分においては、護岸は崩れなくなっていて平地も若干しか残っいないようですが、右側部分の岬の箇所においては、護岸・平地ともほぼ完璧な形で残っているようです。