○日給社宅(16~20号棟)

最終の日給 : 16号棟 大正 7(1918) 鉄筋コンクリート造9階 鉱員社宅
 17号棟 大正 7(1918) 鉄筋コンクリート造9階 鉱員社宅
 18号棟 大正 7(1918) 鉄筋コンクリート造9階 鉱員社宅
 19号棟 大正11(1922) 鉄筋コンクリート造9階 鉱員社宅
 20号棟 大正11(1922) 鉄筋コンクリート造6階 鉱員社宅
*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

写真
<出典:国際文化画報(昭和26年4月発行)>
 19号棟屋上らしき場所には鳥居の姿があって、神社本来の場所にもお社の姿が見えるようですし、 昭和12年(1937)の柱の巻立て等 が実施される前の写真のようにも思われますので、端島神社火災焼失のために19号棟屋上に仮宮が設けられ端島神社が再建される頃の写真ではないかと思います。

写真
<昔の絵葉書より  所蔵: 九州大学 記録資料館>
 こちらも、昭和12年(1937)の柱の巻立て等が実施される前の写真のようです。


写真
<出典:婦人之友第三十巻第十號(婦人之友社・昭和11年10月発行)>
 閉山時に48号棟が建つ付近には、木造らしき家屋が多数見受けられます。

写真《昭和26年(1951)当時の日給社宅屋上より南部方面を眺めた風景》
<”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>
 写真左側が日給の屋上ですが、未だ、階段塔屋や開閉所(電気室?)の姿は写っていません。


写真<村里 榮 様撮影写真>
 左上段写真と同様の17号棟と18号棟の間を大廊下側から望んだ光景です。

写真<村里 榮 様撮影写真>
 18号棟と19号棟の間でしょうか?。それとも19号棟と20号棟の間の光景でしょうか?。自信はありませんが、写真右上に覘いている2号棟?の姿を見ますと後者ではないかと思いますがいかがでしょうか?。


〔 各号棟の特徴 〕

16号棟 9階建。1階には、閉山の頃、海側から詰所・電気店・書店・雑貨屋(以前は、31号があった場所付近で営業していたそうです。)・衣料品店(質屋も?)、2階にはゴミの運搬等を行っていた衛生婦?さんの部屋(ここに来る前は、30号棟1階?)もありました。
 なお、昭和30年頃には1階にパチンコ屋さんがあったそうですが、パチンコで仕事を休む人が多かったので短期間で閉店したそうです。また、その昔は、1階には風呂場があったそうで、昔の写真に、16号棟北側の通路面に木製の塀が設けられていた時の写真がありますが、島の先輩によれば、風呂の目隠しとのことで、その後、57号棟北側の場所に移動するそうです。
17号棟・9階建。1階は宝来亭?(食堂)でチャンポンがおいしかったです。店の人が51号棟裏にある護岸に上がる階段で、皿うどんの麺を干していた記憶があります。また、食堂の山側には天井が低い住居があったようです。
18号棟 9階建。1階は厚生食堂で、店の奥に食堂があり私は鍋焼きうどんが好きでした。店の表の方では季節によって、一串3個のたこ焼き、おでん、かき氷等を販売していましたが、アイスクリーム(「まんじゅう」?の名前のアイスが美味?)は高島では通年販売だったのが端島では風邪の予防策でしょうか、夏場のみの販売でした。なお、昭和30年代の写真を見ますと、パンや豆腐が製造されていたようで、私にも、おぼろげながら、コッペパンの記憶が残っています。また、昭和40年代の初めぐらいでしょうか?、年の瀬にはお餅も作っていましたが、18号棟と19号棟間の通路では餅米を蒸す蒸気が真っ白く立ち込めて、先が見えていない時がありました。ちなみに、出来たお餅は木箱?に入れて各家庭に運ばれていたようです。
19号棟 9階建。1階には住居が一戸あったようです。また、大廊下の1階部分から出火したことがあったようです。
20号棟 6階建。屋上に平屋の木造社宅が、また、半地下には確か肉屋があったようです。


〔 閉山後の光景 〕

写真
<2004年撮影>
 正面は日給社宅の16号棟、建物の上に三角屋根の端島神社が見えています。

写真
<2016年撮影>


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