日給屋上の青空農園ですが、場所的には18・19号棟の屋上に設けられたようです。しかし、数年間しか存在しないようで、残念ながら私の記憶の中にはありません。
<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、2005(第1版1984)、622頁>には「昭和38年ごろから,全国的な運動と相俟って,住民組織による緑化運動が活発になってきた.」や「同年地区PTAの指導のもとに,青空子供会は,18・19号棟の屋上に<青空農園>を作った.植土を高浜や香焼島から運搬し,子供たち自身の手により夏には,トマト,キュウリ,ナスも実り,秋には稲を収穫できた.」の記載があります。
しかし、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、2005(第1版1984)、622頁>には、「屋上庭園という,作物の生育に最悪の条件,潮風の悪影響などから農園を守るために並々ならぬ努力が払われたにもかかわらず,2回の収穫が限度であった.」の記載もあり,日給屋上の<青空農園>は短命だったようです。
ちなみに、山道にあった田んぼにつきましては、長崎観光さんがアップされている
https://youtu.be/UXwgu5cOidM?si=v-5Oqv_GCQEQ94sG 「端島(軍艦島)記録映像 「続・島の四季」」の中に登場します。
〔 日給屋上の緑化関係 〕
<出典:婦人之友第三十巻第十號(婦人之友社・昭和11年10月発行)> 左から18号棟・17号棟、16号棟と思います。18号棟も9階建てとなっていて、また、本の発行年より、昭和11年頃の日給屋上の姿かと思いますが、まだ、屋上に通じる階段の塔屋や開閉所(電気室?)は存在していないようです。
日給屋上の緑化については、昭和30年代後半頃の子供会による青空農園が有名ですが、「婦人之友第三十巻第十號」には、「九階の頂上の屋上の床はコンクリートではなく、薄く土が敷いてあつて細かい草が生えてゐました。」との記載があります。
ついては、当時の九階建ては日給だけでしたので、遅くとも昭和11年頃には日給屋上に土が載っていたようですが、緑化のためかどうかは分かりません。
<写真は島の先輩より> 中央社宅(15号棟)から望む光景かと思います。遠くに見える65号棟北棟は工事中のようですが、もしかしたら、当初建築の7階までの工事中である光景の可能性もあるかと思いますがいかがでしょうか?。
上段の写真では、屋上には、単に「土」が敷いてあるだけですが、こちらの写真では、17号棟の屋上には、上段写真にはない丸い「花壇」のようなものがあります。花壇を設け、土の厚さを増して、草ではなく、蘇鉄の木が植えられているようです。また、写真右端の神社の下の部分ですが、閉山の頃には温室がありましたが、この頃には、まだ、水タンク?が存在しているようで、水タンクが半分写っています。
島の先輩によりますと、昭和17・18年ぐらいには16号棟の屋上で山羊を何匹か飼っていたそうです。また、16号棟屋上ではありませんが、鶏を飼っていたり、鳩小屋が存在した時代もあったとのことです。
<出典:アサヒグラフ 1948 8月25日号(朝日新聞社東京本社・昭和23年発行)>
元の写真から日給付近を拡大しました。17号棟屋上の大廊下側には小さな建物が見え、神社側には左写真の蘇鉄の木が見えているような気がします。また、写真左端の神社下で、閉山時には温室が設けられていた場所には、左上写真にも写っている円筒形水タンクが写っています。
<出典:国際文化画報(昭和26年4月発行)>
写真の説明には、「右手の屋上にあるのは温室で緑を懐かしむ人々のために鉢植の花や木が並べてある。」との説明がありますが、「右手の屋上」とは「日給の屋上を」示す言葉と思います。
<出典:アサヒグラフ 1948 8月25日号(朝日新聞社東京本社・昭和23年発行)>
元の写真から日給付近を拡大しました。17号棟の屋上には大きな建物が、18号棟の屋上には小屋のようなものが写っていますが、どちらが温室でしょうか?。なお、「花壇」のようなものですが16号棟屋上にも設けられているようです。
<所有写真> 裏に1949年のスタンプがある写真からの拡大で、12号棟ぐらいから日給屋上を望む光景です。
- 18号棟屋上にも小屋のようなものがあります。
- その先の17号棟屋上の建物ですが、建物屋根の海側部分には屋根板が載っていますが、建物の中央から右端にはかけては屋根板はほとんどないようで骨組みのみのようです。(工事中?。)
もう1件、日給の屋上の建物情報を以下に記載させていただきます。
2018年4月、長崎市野母町にある
「長崎市軍艦島資料館」にて、清水建設から長崎市が寄贈を受けた端島の建物設計図の内の何枚かが展示されていましたが、その中には「端島既設労務者九階建社宅屋上職員社宅増築工事(木造平屋建)」の図面があり、設計年月日ははっきりと確認ができませんでしたが昭和20年代中頃のようでした。
図の内容としては職員社宅用として、17号棟屋上を目いっぱいに使い閉山時に神社下にあった温室の場所を便所に使用するもの、また、19号棟屋上を目いっぱいに使い閉山時に弓道場の的があった小屋?の部分を便所に使用する2棟が描かれていましたが、19号棟屋上の建物には×らしき線が引かれていました。
今まで、日給屋上の社宅については20号棟屋上のものは知っていましたが、17・19号棟屋上のものは初めて知りました。資料の公開に感謝申し上げます。
ちなみに、下段の
<出典:家の光・第三十巻第八号(家の光協会・昭和二十九年七月一日発行)>の写真には、昭和28年建設とされる59・60・61号棟が写っている写真が掲載されていて、本の発行年から昭和28・29年の撮影となる写真かと思いますが、日給屋上には建物らしき姿は見えないようですので、もしかしたら、台風等の被害を受けて取り壊されたのでしょうか?。
<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
19号棟の前面部分には迷彩塗装が施されているようで、17号棟の屋上ぐらいには三角屋根の建物が見えます。
また、閉山時には20号棟屋上に木造平屋の建物がありましたが、この頃はできていないようで、島の先輩からは、20号棟屋上の建物は一度台風にて崩壊したが、当時の住宅不足により、改めて設置した旨のお話しを聞いたことがあります。
ちなみに、日給は
昭和26年(1954)の柱の巻立て等が実施される前と思われる頃の写真です。
<出典:家の光・第三十巻第八号(家の光協会・昭和二十九年七月一日発行)>
日給屋上から建物が消えています。ちなみに、写真左下の閉山に市場があった場所ですが、この当時は浴場があったようで、五十段の登り始めの場所には水タンクらしきものが2基見えます。