○想像・日給の建築過程

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

〔 建築過程 〕

1.
日給の着工当初については、以下の情報があります。


 <「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 29』、財団法人 東京大学出版会、昭和56年復刊、4610頁」の「社誌第二十五巻 大正七年 大正七年自一月自四月高島炭坑資本金及損益其他」>の中には「八階坑夫社宅新築工事ハ昨年ヨリ基礎工事ヲ續行」の記載があり、大正6年から工事が開始され、大正7年の1~4月の間にも基礎工事が続行されているようです。


2.
日給の建築過程については、私が知る限り、以下の三通りがあります。


  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、787頁より)
     16号から20号に至るアパート5棟が大正6年9月に着工され,翌7年6階まで完成するとともに,30号アパートと同様砿員社宅として使用された。この5棟は当初アメリカの会社によって9階建てアパートとして設計されたものであるが,その後増築(嵩上げ)工事が中断されていたところ,大正9年に16・17号,更に昭和3年に18・19号がそれぞれ9階に増築された。(20号アパートのみ6階のまま)。
  • 軍艦島実測調査資料集(阿久井喜孝 他 編著、東京電機大学出版局、1984、646頁より)
     大正7年(1918),まず16,17号棟が9階建て,18号棟が6階建てで竣工した.大正11年(1922)19,20号棟が大廊下とも6階建てで増築される.次いで,昭和7年(1932)に18,19号棟が上に三層増築して9階建てになり,RC躯体の骨格全容が現在見られる形となった.

    《 日給社宅の建築概要(軍艦島実測調査資料集の年代による) 》
    内容 (a)Ⅰ期 大正7~11年  16,17号棟9階建て、18号棟6階建て
    (b)Ⅱ期 大正11~昭和7年  16,17号棟9階建て、18,19,20号棟6階建て
    (c)Ⅲ期 昭和7~12年  16,17,18,19号棟9階建て、20号棟6階建て
    (d)Ⅳ期 昭和12~26年  階数変化なし、大廊下隅に便所ができる。
    (d)Ⅴ期 昭和26~49年
     吹抜大廊下の手摺が木製からブロック積みモルタルの腰壁に変わり、柱補強コンクリート巻たて補修のため、より閉鎖的で重々しい立面図となる。
    <上記図版及び図版説明文は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載。>
     上記図版オリジナル版では、図(a)(b)における18・19号棟の赤い線の部分も黒線で表示されていますが、それは9階建て時点のものです。ついては、図(a)(b)の時代では、18・19号棟はまだ6階建てであり赤い線の部分はありませんので、これを表すため資料を改変しています。(階によって戸数は違います。)

  • 高島炭砿史(三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、三菱鉱業セメント(株)、1989年、519・520頁より)
     大正7年 1918 端島に6階建社宅落成(16~20号)  大正9年 1920 端島に9階建社宅落成(16,17号)  昭和3年 1928 端島に9階建社宅落成(18,19号)


3.
掲載の絵葉書や図面から得られる情報は以下のとおりです。



4.
「絵葉書や図面から得られる情報」により、建築当初から大正9年までは三通り以外の建築過程も考えられるため、「三菱鉱業社史」、「軍艦島実測調査資料集」、「高島炭砿史」及び「「絵葉書や図面情報」を加えた建築過程」を<建築過程一覧表>としてまとめてみました。なお、表右端の「「絵葉書や図面情報」を加えた建築過程」はあくまでも個人的感想であり、間違いが多々あるかと思いますが、どなたかが解明してくれるきっかけになればと思い記載いたしました。


<建築過程一覧表>
区分三菱鉱業社史
(昭和51年)
軍艦島実測調査資料集
(1984年)
高島炭砿史
(1989年)
「絵葉書や図面」情報
を加味した建築過程
大正6年16号から20号に至るアパート5棟が9月に着工16・17号棟が9月に着工
(「日給の当初着工箇所は16・17号棟と思われること」(前段3-a)と三菱鉱業社史の「9月に着工」の情報より推測)
大正7年6階まで完成16,17号棟が9階建て,18号棟が6階建てで竣工6階建社宅落成(16~20号)16・17号棟が6階まで完成
(「日給の当初着工箇所は16・17号棟と思われること」(前段3-a)と三菱鉱業社史の「6階まで完成」並びに高島炭砿史の「6階建社宅落成」との情報より推測)
大正9年16・17号が9階に増築9階建社宅落成(16,17号)16・17号棟が9階に増築、18号棟が6階まで完成
(三菱鉱業社史の「16・17号が9階に増築」並びに高島炭砿史の「9階建社宅落成(16,17号)」の情報と「18号棟が6階まで完成」は前段3-b,3-cからの推測ですが、17号棟の9階まで増築完成や18号棟の6階まで完成については後年の可能性についても 思案中 です。)
大正11年19,20号棟が大廊下とも6階建てで増築
昭和3年18・19号が9階に増築された9階建社宅落成(18,19号)
昭和7年18,19号棟が上に三層増築


4.
現在、私が確認できている工事費については以下のとおりです。

年月日予算区分名     称金  額引  用  元
大正5年
 12月25日
大正6年度
起業費
端島八階家新築費32,100円
<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 26』、財団法人 東京大学出版会、昭和55年復刊、3354頁」の「社誌第二十三巻 大正五年 大正六年度各炭坑起業費」>
大正6年
 8月21日
大正6年度
臨時起業費
端島八階家新築工事費追加
60,000円
前回分 32,100円
計   92,100円
<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 27』、財団法人 東京大学出版会、昭和55年復刊、3679頁」の「社誌第二十四巻 大正六年 高島炭坑臨時起業費承認」>
 八階坑夫社宅や端島八階家の名称が使用されていますが、CiNii(国立情報学研究所サービス)の「 9080 大正・昭和初期の高島炭坑端島坑社宅街の変遷(社宅,建築歴史・意匠) 」に掲載されている「図3 端島炭坑々外送電線並配電線路実測平面図(大正7年)」では、日給の場所に「建築中 八階鉱夫長屋」との記載がありますので、「八階坑夫社宅」や「端島八階家」は日給のことのようです。
 また、「 9080 大正・昭和初期の高島炭坑端島坑社宅街の変遷(社宅,建築歴史・意匠) 」においては、実習年度が大正6年(1917)の九州大学端島坑実習報文では、「坑夫長屋ノ如キモ鉄筋混凝土ノ七階建ノ空ニ聳ユルアリ、又十二階建ノ坑夫納屋ノ設計既ニ成リ、近ク其ノ施工ニ着手セントス」と記述されている旨が記載されていますが、七階建が30号棟で十二階建が日給のことかと思いますので、日給の最終計画としては「十二階建」ですが、取りあえずは「八階」迄でということで建築が始まったのでしょうか?。ちなみに、30号棟建築の決算額は47,570円74銭ですが、日給の工事費(大正6年8月21日時点)は92,100円となっていて、30号棟の2倍弱の金額が確保されています。


〔 絵葉書・図面 〕

写真《長崎港外端島名勝 十二階》  <所有絵葉書>
 正面に写る建物は、日給の16号棟で9階建てですが、絵葉書の名称には十二階の文字が使用されています。
 また、十三階との記載もあるようで、「長崎商業会議所調査部、『長崎に於ける石炭の集散』、長崎商業会議所、大正七年八月二十日、三四頁」には、「端島の如きは地積狭隘なる為め工費五万円を投じて鉄筋コンクリート七階建家屋(外壁十一間に十三間、全建坪一千一坪、全戸数二百十戸、各戸四畳半乃至六畳、一戸毎に炊事場を附属す)を設備し、別に又十三階建の同式家屋建築中なり。」の記載があります。ちなみに、鉄筋コンクリート七階建家屋が30号棟で、十三階建の同式家屋が日給のことかと思います。


内容《高嶋炭坑ゑはかき-上(病院レントゲン室)・中(建築中の十二階屋鉱夫社宅)・下(病院の廊下)》  <所蔵: 九州大学 記録資料館>
 絵葉書中央の写真のタイトルは「建築中の十二階屋鉱夫社宅」となっていて、日給社宅の文字はありませんが「十二階」の記載や、十二階屋鉱夫社宅手前右側擁壁に沿う建物や 旧14号棟 が建っていると思われる場所の擁壁の状況から、中央写真の建物は日給の建築中の姿と思います。ちなみに、撮影は大正7年ぐらいで、撮影時点の高さは5階建てぐらいでしょうか?。
 貴重な資料が数多く収められてられている九大コレクションでは、左絵葉書の拡大画像が閲覧できますが次がそのURLです。
    http://hdl.handle.net/2324/403378
 拡大画像にある日給社宅西側側面(写真の左側)の柱間(柱と柱の間の空間)を数えますと「7」個あるようですが、このページ下にある「日給の6階と7階の住居戸数比較」の図では、16号棟の端から「7」個目の柱間は17号棟端の箇所であり、左絵葉書の建物自体もかなり上の階までできていることから、日給最初の建築箇所は16号棟と17号棟となるように思いますが如何でしょうか?。


内容《端島坑外実測図〔部分〕 (大正十年度 高島炭礦端島坑 実習調査報告書附図)》
  <九州工業大学附属図書館所蔵>
 端島坑外実測図から日給とその周辺部分を抜き出しましたが、こちらは上段の九州大学絵葉書に描かれている日給に18号棟が加わった図のようです。16号棟は「九階建(現在十二階建造中)」の記載から既に9階建てであることが分かりますが、17号棟は「七階建(現在十二階建造中)」との記載で8・9階の工事状態が不明であり、18号棟については階数情報の記載はありません。
 報告書の自序には大正10年9月との記載がありますが、高島炭砿史の「大正9年 9階建社宅落成(16,17号)」や三菱鉱業社史の「大正9年 16・17号が9階に増築」の記載を考慮しますと、こちらの図は17号棟が9階建てとなる直前の状態であると思われるため、大正9年かその直前の状況を描いた図で、また、19号棟が建つこととなる場所の状況比較から、下段絵葉書の光景よりも若干早い時期の図ではないかと思います。


内容《長崎港外三菱高島礦業所 端 島 坑 (九階建社宅方面)》  <所有絵葉書>
 この写真は、昔の日給の写真として一般的なものではないかと思いますが、写真左側の大きな建物が日給で、右側には旧13・旧14号・旧15棟が写っています。
 なお、日給の状態としては、竣工直前の光景か、竣工後の光景かは分かりませんが、16・17号棟は9階まで、18号棟は6階までの姿となっています。


内容《長崎港外三菱高島礦業所 端 島 坑 (九階建社宅方面)》<所有絵葉書>の部分拡大
 大廊下の拡大画像です。柱間(柱と柱の間の空間)は 16・17号棟のみの時の「7」個 から18号棟分の「4」個が増えて「11」個となっていますが、このページ下にある「日給の6階と7階の住居戸数比較」の図においても、16号棟の端から「11」個目の柱間は18号棟端の箇所ですので、こちらの写真の撮影時には16・17号棟・18号棟の姿となっていることが分かります。
 なお、上段写真に写る日給の姿は、軍艦島実測調査資料集の「16・17号棟が9階建て18号棟が6階建てで竣工」の説明が当てはまる時期の日給のように思えますが、こちらの拡大画像で大廊下の南端を確認しますと17号棟の8・9階の箇所(黄色の矢印の先)では他の階の大廊下南端(赤色の矢印の先)と違って「手摺り」が確認できませんので、こちらの写真の17号棟の8・9階は増築中の頃で「16・17号棟が9階建て18号棟が6階建てで竣工」となる直前の写真のように思っていて、下段写真においても17号棟には最上階の9階ができていて、18号棟についても当時の最上階である6階ができていますが、それぞれの屋上には多数の建築資材が載ったままとなっていて、また、17号棟8・9階や18号棟各階の廊下部分には 洗濯物 が干されていないので当該箇所には入居者はいないように思われ、17号棟8・9階や18号棟全体は内装等の工事中であって、竣工直前の光景ではないかと思いますがいかがでしょうか?


内容《長崎港外三菱高島礦業所 端 島 坑 (九階建社宅方面)》<所有絵葉書>の部分拡大
 日給全体の拡大画像です。 九州工業大学図面 では大廊下が19号棟方面に延伸する際に支障となる場所や19号棟が建つこととなる場所にも建物が描かれているようですが、本写真にはそれらの建物はありませんので九州工業大学図面に描かれた時期から少し後の光景で、 高島炭砿史(1989年)の「大正9年 9階建社宅落成(16,17号)」 の記載から、大正9年頃の日給を写した光景ではないかと思っていますが、 大正11年にできたとされる19号棟 が建つ場所の一部には足場らしき構造物も見え、絵葉書《長崎港外三菱高島礦業所 端島坑 (九階建社宅方面)》の部分写真である本写真とほぼ同じ光景と思われる写真が、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、2005(第1版1984)、145頁>では「写真757 日給社宅他 〔1918-1922〕」の説明で掲載されていて1922年と大正11年の関係から、もしかしたら大正9年よりも後の光景である可能性もないかと悩んでいます。


内容《長崎港外三菱高島礦業所 端 島 坑 (九階建社宅方面)》  <所有絵葉書>
  前出の絵葉書 にも同じタイトルで同じ構図の絵葉書がありますが、前出の絵葉書にあるタイトルでは当初から「長崎港外三菱高島礦業所 端 島 坑 (九階建社宅方面)」と印刷されているのに対し、こちらの絵葉書にあるタイトルでは抗名を当初「高島坑」で印刷し後から「高」の上に「端」の文字と「端」の左側に「◎」の記号を追加印刷しているようで、タイトル部分の配置位置についても前出の絵葉書より右寄りにあって、それらの相違から両絵葉書は異なる時期の発行かと思っています。ちなみに、こちらの絵葉書は前出の絵葉書よりも色が濃くて、端島神社のお姿や下段写真に説明の建物も分かりやすいのではないかと思いました。


内容《長崎港外三菱高島礦業所 端 島 坑 (九階建社宅方面)》<所有絵葉書>の部分拡大並びに加筆
 上段の絵葉書から17号棟8・9階右端の岩礁側付近を拡大し説明のため赤色の矢印を加筆しました。日給右隣にある 旧15号棟 の上に見えているのは端島神社になります。ちなみに、このときの17号棟8・9階は住居配置が7軒と閉山の頃の8軒よりも1軒分短いため、17号棟右端と岩礁との空間は閉山の頃より広く、空間部分には日給とは別の建物(赤色の矢印の先)が見えているように思います。なお、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、2005(第1版1984)、145頁>に掲載の「写真757 日給社宅他 〔1918-1922〕」の写真でも日給とは別の建物があるように思われ、 当時描かれた図面による建物の位置関係 や、 島の先輩から伺った昭和初期における建物の位置関係 から想像しますと、日給とは別の建物の正体は 先々代校舎(上の段の校舎) かと思いますがいかがでしょうか?。


《 日給と14号棟の光景今昔 》
内容《 (長崎港外)端島十二階の全景 Junikai Hajima, Nagasaki. 》
  <所有絵葉書>

 「16・17号棟は9階建て・18号棟は6階建ての姿」から時間が経過し「19・20号棟も6階までが完成した時の姿」ですが、絵葉書にある「長崎遊覧紀念 13.6.16」のスタンプから、大正13年かそれよりも少し前に撮影された写真を使用した絵葉書で、右上に旧14号棟が写っています。

内容 《長崎港外端島名勝 裏海岸全景》<所有絵葉書>からの部分拡大で、海上から見た日給の光景です。16・17号棟が9階建てで、18~20号棟が6階建ての頃の姿のようです。


写真<2013年撮影>  <長崎市の特別の許可を得て撮影>
 昔と現在の光景を比較するため、《 (長崎港外)端島十二階の全景 Junikai Hajima, Nagasaki. 》の絵葉書と同じ光景での撮影を試みましたが、48号棟、51号棟、21号棟及び公民館があり撮影する場所が限られて、このような光景での撮影となってしまいました。
 18・19号棟が9階建てとなり、他にも48号棟、51号棟などの高層アパートに囲まれて圧倒されてしまいます。まさにビルの谷間の光景です。




内容

《 (長崎港外)端島十二階の全景 Junikai Hajima, Nagasaki. 》<所有絵葉書>の屋上部分の拡大並びに加筆
 絵葉書から屋上部分を拡大し、説明のため赤い丸印を加筆しました。赤い丸印の箇所には何かが出ているようですが、日給の住居は台所と隣の台所が向かい合うようにつくられていて、向かい合った部分の部屋の壁に沿って出ているようです。


内容
《三菱高島礦業所 端島坑九階建社宅》  <所有絵葉書>
 前出の《 (長崎港外)端島十二階の全景 Junikai Hajima, Nagasaki. 》と同じく、16・17号棟が9階建てで、18~20号棟が6階建ての頃の姿です。低い方の18~20号棟(6階建)の屋上には手摺りがあるのに、高い方の16・17号棟(9階建)の屋上には手摺りがない点が気になります。
 ちなみに、絵葉書における建物名称が「十二階」から「九階建」へと変更になっています。

内容《三菱高島礦業所 端島坑九階建社宅》<所有絵葉書>の部分拡大並びに加筆
 17号棟の屋上が写っている部分を拡大し、説明のため赤色の矢印を加筆しましたが、矢印の先には、閉山の頃にはなかった構造物が見えています。
 ちなみに、閉山の頃には、この辺りには、細長い煙突が1本建っているだけでした。なお、8・9階には多くの洗濯物が干されています。

内容《三菱高島礦業所 端島坑九階建社宅》<所有絵葉書>の部分拡大
 更に拡大しました。閉山の頃にはなかった構造物の正体は、かなりの本数の柱のようですが、何のための柱でしょうか?。
 9階建てとする際に必要だった柱?、12階建てとする際に必要となる柱?、それとも18号棟以降を増築する際に必要となる柱?、想像は尽きません。

内容 《三菱高島礦業所 端島坑九階建社宅》<所有絵葉書>の部分拡大
 絵葉書の左下部分の拡大です。
 日給2階と島の通路を結ぶ階段は、閉山の頃には16号棟と19号棟の付近の二ヶ所にありましたが、その昔は、17号棟と18号棟の間の一箇所のみにあったことが<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、初版1984、346頁>の図版3-138や図版3-139に描かれていて、この写真はその頃の階段と思われます。
 また、通称「めがね」も見えていて、その形は既に閉山の頃の形をしているようですが、護岸の上にはレールが敷かれているようで、もしかしたら、近くの護岸を工事している頃の光景ではないでしょうか?。


内容《長崎港外端島コンクリート九階建ノ偉観》  <所有絵葉書>
 18・19号棟が6階建てから9階建てへと増築された後の光景ですが増築の時期は 昭和3年または昭和7年 であることや、まだ、 昭和12年(1937)の柱の巻立て等 が実施される前の光景のようであって、また、この絵葉書の表面には 「三菱端島坑 13 1 27」 のスタンプが押されていますので、この絵葉書の撮影は昭和10年前後ではないかと思っています。なお、閉山の頃には、日給の左端(16号棟の部分)には便所がありましたが、この頃はまだ便所はなく廊下の一部だったようで、この写真の撮影以降も日給の改修は継続されます。
 ちなみに、日給にはコンクリートだけではな場所によってはく 炭殻ブロック も使用されていたそうです。


内容《長崎港外端島コンクリート九階建ノ偉観》<所有絵葉書>の部分拡大
 屋上にある電柱は、17号棟と18号棟の境目に位置し、電柱の左側が16・17号棟部分で、右側が「後日増築の18~20号棟部分」となります。電柱の左右を7~9階部分で比較しますと、電柱右側の手摺りの方が高くなっており、また、天井を支える「はり」の形にも違いがあるようです。
 しかし、6階部分では、そのような違いはないようなので、18・19号棟の7~9階部分を増築する際には設計の見直しが行われたのでしょうか?。
 ちなみに、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、初版1984、346頁>の図版3-139においても、手摺の高さは同じですが「はり」の形に相違があることが分かります。
 また、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、787頁>には、「昭和3年ごろ18号・19号アパート嵩上げ工事の際に,30号アパートと共に柱「はり」の断面を大きくし,鉄筋を挿入して補強すると同時に,外壁の塩風が当たる面には防水モルタル塗布した。」との記載があります。


内容《長崎港外端島コンクリート九階建ノ偉観》<所有絵葉書>の部分拡大
 絵葉書の2・3階付近の拡大です。写真下段の中央には、その昔、日給の中央付近にあった日給2階と島の通路を結ぶ階段が写っています。


〔 19号棟7~9階の延伸部分増築場所について 〕

 下の変革図において、上段の図版8-28には旧15号棟がありますが、下段の図版8-29では旧15号棟は存在せず図版8-28に比べて特に19号棟がかなり長くなっています。また、変革図の下に記載している「日給の6階と7階の住居戸数比較」でも、19号棟では6階に比べて7階は住居戸数が3戸増えています。
 18・19号棟が上へ3層(7~9階)増築の際に、併せて、19号棟が岩礁側(2号棟側)への延伸も行われた時は、元々、日給の7階床相当の高さがあった旧15号棟跡地が使用されたようです。


《 変 革 図 》

写真
<図版(8-28・8-29)は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載。>
旧13~15号棟関係を説明するため、上記図版オリジナル版に赤文字及び赤矢印を追加し改変してます。
 


《 日給の6階と7階の住居戸数比較 》

6 階
内容
7 階
内容

<左図版2枚(図版3-144・3-145)は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載。>

<比較検証・図版上から>
号棟名6階7階増減
(7F-6F)
20号棟屋上
19号棟
18号棟
17号棟
16号棟

 なお、上図版は「日給社宅柱補強RC巻たて前のプラン平面図」であり、軍艦島実測調査資料集の「日給社宅-主要建物の実測詳細図面集」にある「日給社宅平面図」(追補版242・243頁)ではありませんのでご注意願います。「日給社宅平面図」での6階と7階の戸数比較は下表のとおりとなります。


号棟名6階7階増減
(7F-6F)
20号棟屋上
19号棟
18号棟
17号棟
16号棟
 ちなみに、「日給社宅柱補強RC巻たて前のプラン平面図」と「日給社宅平面図」との違いですが、前者の方が古いようで、例えば17号棟6階では、前者では6戸、後者では7戸となっていますが、その違いは、前者では最も山側の通路となっている箇所が、後者では通路ではなく住居に変更となっている点です。ここにも日給の変遷があるようです。


〔 柱の巻立て等 〕

柱の巻立てについて、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、初版1984、646・647頁>には以下の記載がありました。
  • 昭和12年(1937)に,従来山側におかれていた共同便所が16号棟海側大廊下の端部に移設され,同時に19号棟の大廊下の便所も共用洗い場の増・改築とともに拡張されて,海側ファサードのほぼ半分を超える9スパンが煉瓦若しくは炭殻ブロック積みの壁で充塡され,柱の一部も巻立て補強により肥大化することによって海側ファサードは閉鎖的な表情に一変する(図3-140).
  • 昭和16年(1941)に,旧14号棟がRC5階建ての新14号棟(中央社宅)に建て替えられたとき,その隅柱は20号棟中庭岩盤側の柱を巻立て補強して基礎とし,同時に19,20号棟間の中庭中空に両棟を結ぶ数本の飛梁を,鉄筋のみ込みもエクスパンションもなしに横架し補強するなど,かなり強引ともいえる処理を行っている.現在,1本を残すほかは痕跡が見られるのみである.
  • 昭和26年(1954)に,全棟にわたって,大がかりな補強工事が行われ砿業所施設課に詳細な施工図(図版3-127~133)が残されている.海側と中庭側ともRCの巻立てにより柱が飛躍的に肥大したことと,従来,木製格子の棚にすぎなかった手摺が,海側の全階にわたりコンクリートブロック積モルタル塗りの腰壁に改造されたため,軽快なファサードのイメージは全く一変し,やや重苦しい閉鎖的な表情が一層強められた.

<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、345・347頁>の(図版3-137~141)には、大廊下の柱の巻立てが実施される前や、昭和12年(1937)と昭和26年(1954)の巻立てが実施された後の姿が描かれていますが、それらの姿は大廊下が写っている日給写真の撮影年代を特定する際に非常に貴重な情報になり得るかも知れません。

前出の「飛梁」についてですが、「NHKアーカイブス」に保存されている1947年放送の端島映像では19・20号棟の5階と思われる部分には飛梁が2本見えているようですが、<『カメラ芸術』、東京中日新聞、昭和37年2月、86頁>に掲載の19・20号棟間の写真では飛梁は1本で、なくなったと思われる飛梁の箇所には痕跡らしきものが残っているようです。ちなみに、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、244頁>の日給社宅5階平面図(図版3-9)には残っている1本の飛梁が描かれているようです。


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