○資材倉庫
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《長崎港外端島プール 昭和十六年一月十一日 長崎要塞司令部再検閲済》
<所有絵葉書> 学校グランドから石炭積込桟橋の全容が見えますので、資材倉庫が、まだ、建設されていない頃の光景で、学校海岸のクレーンも閉山の頃のクレーンとは形が違うようです。絵葉書には昭和十六年再検閲済とありますので当初検閲はこれより前となりますが、昭和6年埋め立ての場所となるかと思いますので、昭和16年からはそんなに遡らない時代の写真のように思います。
なお、<パシフィックコンサルタンツ(株)編集、長崎市経済局文化観光部文化財課及び総務局世界遺産推進室監修、『史跡 高島炭鉱跡(高島北渓井坑跡・中ノ島炭坑跡・端島炭坑跡) 保存管理計画書』、長崎市教育委員会、2015年9月、145頁>には、資材倉庫について以下の記載があります。
| 建設年代 | 昭和15年(1940) |
用途 | 赤土、セメント、砂、材木などの坑内密閉用の資材倉庫 |
構造 | 鉄筋コンクリート造 |
特徴 | 20tクレーン台座横に位置する資材倉庫から第2竪坑まで資材運搬用のレールがあった。 |
規模 | 1階 |
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ちなみに、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、初版1984、582頁>に掲載の「図版8-35 65号棟建設過程の建物配置変化図(Ⅱ)(昭和20年)」では資材倉庫の位置にある建物名称は「貯硬ポケット」となっていますが、「図版8-36 65号棟建設過程の建物配置変化図(Ⅲ)(昭和24年)」では建物北端の形に若干の違いがあるだけで建物名称は「資材倉庫」と変わっていますので、もしかしたら、資材倉庫は「貯硬ポケット」を改装した建物になるのでしょうか?。また、両者の図において閉山時に清水タンクがあった場所には「炭車修理場」の建物が描かれていますが、清水タンクとは全く形が違いますので「炭車修理場」を取り壊した跡に「水タンク」を設けたのではないかと思います。
<高比良勝義氏(元島民)撮影> 昭和31年の台風被災時の光景ですが、地盤の土砂が流失して建物の基礎部分が海と化しているようです。
写真右側の建物が資材倉庫で、左側の建物は清水タンク、そして、両方の建物の間から遠くに見えているのが65号です。資材倉庫の一番下の部分には、四角形の穴を塞いだと思われる痕跡があるようです。
なお、赤土や石灰?はこの建物ではなく、建物と護岸の間にあった倉庫に保管されていたように思います。
<高比良勝義氏(元島民)撮影> 昭和31年の台風被災時の光景で、左写真とは反対側の光景です。
写真左側に資材倉庫が見えていますが、土砂が流失して資材倉庫前が海と化しているようです。
ちなみに、正面の清水タンクや写真右側のレールの様子から考えて、資材倉庫は地下1階・地上3階ぐらいの建物になるのでしょうか?。