○先輩等のお話し抜粋
*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。
このページは、拙HP掲示板への投稿や元島民から伺ったお話し、また、書籍等の記載から気になった事柄を記載しています。書かれた方等の勘違い、参考した資料の誤記、また、私の誤記等あり、ここに記載してあるのが正解とは限りませんので、一情報としてご覧ください。お気づきの点がありましたら掲示板又はメールにてお知らせ頂ければ幸いです。
- 56・57号棟が建つ前に有った昔の学校の質問に対して
- 49.50.51.52号棟部分(管理人記載:おそらくは、閉山時の59~61号棟部分)がグランドだった頃は、下の段には1.2年と雨天体操場、上の段にはそれ以外の部屋がありました。なお、上の段の建物の端は17号棟ぐらいまで有り、17号棟の端を小遣い室に使用していました。また、神社に上がる階段が有った場所に、上の段の入り口(校門?)がありました。
- 除夜の鐘・初詣について
- 除夜の鐘は、ラヂオで聞いていました。勿論、紅白歌合戦なんてありませんでした。端島神社の朝参りは、昭和16年12月8日の朝だけ、戦勝祈願のため出かけた思い出があります。
- 島の餅つきについて
- 戦前は、高浜から餅つき部隊がやって来て、地区別に餅つきをやっていました。日にちが決まっていたので、もち米の洗いやアンコの作成で、各家庭とも忙しい時期でした。学校が終わると、この部隊に付いて回りました。餅を取り上げて空臼をつかせたり、5人位で回しつきしたりする、曲芸的なこともやって見せてくれていましたし、一年で最も楽しい行事の一つでした。
- 戦時中、建物が迷彩塗装されていたが、その効果についての質問に対し
- 迷彩色が何色であれ、どんなに塗られていようとも、全く、役にたたない事を昭和19年夏ごろに経験しました。警戒警報のサイレンに続いて、空襲警報のサイレンが鳴り、間もなく、爆音が聞こえてきたので、空を見上げたら、閃光が走り、照明弾がユラリ、ユラリと落ちてきて、辺り一面は、真昼より明るくなり、何が何処にあるか一目で判る状態になりました。灯火管制や迷彩色なんて、何の役にもならないことをしりました。昭和17年頃に塗ったと思います。当時のコンクリート建ては、30号、25号、56,57号、16~20号、66号だったと思います。
- 迷彩色について
- 迷彩色は、黒色でした。
- 建物に対する迷彩は他の方がおっしゃられているように黒、または泥色だったようです。また、黒色でトラ縞にしたり、焼け落ちたかのように偽装するために、黒で塗りたくった建物も本土ではあったようです。九州大学の施設の一部は、今でも黒い迷彩が残っているようです。
- 島への爆撃について
- 昭和49年1月10日発行の冊子で、朝日新聞社編集の「聞き書き軍艦島」<非売品>には、「二十年の五月末やったかな、B29が3機、爆撃したけど、岸壁から三、四十メートル先に落っちゃけた。メガネ(海におりる石段)からのぞいたら、魚がいるわ、いるわ、ナベタ、クロ、チヌ、みんな腹を浮かしよった。不発弾は怖いが魚は食べたしで、みんなで天馬を持ち出して、あぶないぞ、あぶないぞ、といいながら集めた。あの久しぶりの魚の味は忘れられん」の旨の記載があります。
- 『よむ』岩波書店(1994年2月号)で、軍艦島閉山20年の特集が組まれておりますが、島に住んでいた方のお話しとして、「爆弾はよく落とされていたが、島に当たらなくて海に落ちる。勇ましい人は泳いで大量に浮いた魚をとりに行ったりしました。」の旨の記載があります。
防空壕について- <加地英夫著、『私の軍艦島記 端島に生まれ育ち閉山まで働いた記録』、(株)長崎文献社、2015年、39頁>には「昭和20年3月米軍は硫黄島を占領し、4月1日に沖縄に上陸しました。戦争はいよいよ本土決戦の様相をおび、端島でも島の中央岩盤に、東側(貯炭場)から西側(日給社宅)に向かって防空壕が掘られました。」の記載があります。ちなみに、20号棟と21号棟の間にあった防空壕?は こちらの写真 の20号棟横に写っています。
- 「選炭場の附近から郵便局の付近まで掘った。」とおっしゃる先輩もいらっしゃいます。もしかしたら、 こちらの写真 でベルトコンベアーらしきものが出ている穴でしょうか?。
- 「五十段の下にあった穴は終戦直前に、防空壕(後日、ボタ捨用ベルトコンベアーが設置された穴)まで貫通させようとした穴です。但し、1mぐらい掘ったところで終戦になりました。」とおっしゃる先輩もいらっしゃいます。子どもの頃、57号棟前の広場から65号棟に向かう階段を下った付近の五十段の下に、少しへこんだ箇所があって、何の跡かなと思っていました。
速射砲について
原爆投下時の様子について
終戦の知らせについて- 昭和48年10月の朝日新聞版「聞き書き 軍艦島」には、当時外勤係だった方の話しとして、「8月15日の夜8時か9時頃、外勤本部に電話連絡があった。」の内容の旨の記載があります。
- 前出、冊子版「聞き書き軍艦島」には、別の方の話しとして、「長崎へ行ってきた人が、戦争が終わっているというて回った。終戦から2・3日が過ぎていたが、ラジオも聴けんから誰も知らなかった。その人は流言を流すと警察に捕まった。」や「当時、会社の人には既に知っていた人も居た。」の内容の旨の記載があります。
「軍艦島 海上産業都市に住む」には、「昭和21年に端島に渡り、暗くて長いトンネルを抜けたら30号棟だった。」とあるが、「主婦之友・昭和11年10月号」では、「暗い地下道を出て、右手に炭坑事務所、左手に赤煉瓦倉庫のあるレール敷きの道を一寸行ってから、岩によりそって作ってある急な石段に差しかかります。」となっており、両者の相違についての質問に対し
- 昭和19年10月までは、トンネルを抜けると、事務所前にでました。右側には、用度課(三坑巻座跡、後の資材課)のレンガ造り、事務所(下は労務課、上は坑務課、工作課、庶務課、坑長室など)、レンガ造り(二坑の旧巻座か?)、レールがある橋を潜り、30号に当るので、右へ直角に曲がり、坂を登ると30号の一階、階段を上がると二階、ここで、右の階段をあがると山道へ、左に行くと、左に30号、途中の右側に25号、26号に上がる階段、30号の角で、左は一階への階段、右は、25号の二階へと通じていました。
昔の想い出として- 木造校舎時代に、小学校の校庭が自然発火して、生徒が煙にまかれ、教室が使えなくなり、校庭や校舎の床下に大きな孔を掘り、消防ホースで注水し、消火したことがありますが、何時の時代だったか思い出せません。多分、終戦後だったと思うのですが覚えておられる方が居られたら教えて下さい。
浮選機室とドルシックナーの関係についての質問に対し- 選炭場の工程は、炭質の違いのため、炭鉱によって違っていました。高島と端島でも違いがありました。端島は、浮遊選炭機を利用して、微粉炭の回収をして、製品として売却していました。浮遊選炭では、薬品を入れ、泡をつくり、その表面に微粉炭だけが付くようにし、ボタ質のものは、下から抜いていました。ドルシックナーは、選炭に使った水を再利用するため、固体を沈殿させ、オーバーフローした水は、再利用、底に溜まった微粒部分を区画した箱に入れ、脱水していました。(この工程に浮選機が使われることもある)
- 別の先輩からは「ドルシックナーは選炭に使った水を再利用するための装置ではなく、選炭した水を濃縮するための装置です。」とのお話しも伺っています。時代により相違があったのでしょうか?。
地獄段について- 島に住んでいる時は、地獄段の名称は使用したことがない。(管理人記載:別の階段ですが「五十段」の名称は使用していたそうです。)
<戦前に端島で生まれ最後まで島に住んでいらっしゃた先輩>
- 戦前は「宮ノ下の階段」と呼んでいて、宮ノ下の階段を上り詰めたところに神社への階段があった。戦後暫くして端島を出ている時に、島に働きに通っている方から「地獄段の名称を使用していて驚いた。」との話を聞いたことがある。おそらくは、戦後、島に来られた方が「地獄段」の名称を使い始めたのではないか。
<昭和十年代から二十年代半ばかけて島に住んでいらっしゃた先輩>