《三菱端島炭鉱の高層アパート=1947(昭和22)年5月21日、長崎県高島町》
< 「西日本新聞社提供」(写真) 「許諾済」 フォトライブラリー > 21号棟のページに掲載しておりますが、場所としては20号とお寺の間で、閉山の頃には21号棟や22号棟が建っていた場所になります。昭和22年の頃は木造家屋が建っていたようです。
こちらの写真でも、お寺の手前にその姿が写っておりますが、建物は二段に分かれて建てられているようです。
ちなみに、こちらの写真の特徴ですが、閉山の頃にはあった20号棟屋上の木造住居は存在していないようです。
<写真は、「長崎グラフNO.2 昭和三十一年三月一日発行」より> 正面の建物が48号棟、右下の建物が20号棟で、左下の建物が21号棟になります。
島の先輩の写真集を拝見しますと、昭和30年代ぐらいに、20号棟と21号棟の間に公園があった写真や図が掲載されていますが、この写真でも、ブランコや砂場のような形が見えるような気がします。
21号棟の1階海側には警察派出所があり建物内には牢屋もありました。ちなみに、その前は、
25号棟にあり、もっと古くは『三菱社誌』に、
明治41年には「表交番所」や
大正3年には「瓦斯ノ鼻表交番所」の記載があり、「瓦斯ノ鼻」という場所に「表交番所」があったようですが、「端島交番所」ではなく「表交番所」となっているので、もしかしたら複数の「交番所」があったのではないかと余計な考えをめぐらせてしまいます。なお、「瓦斯ノ鼻」が現在ではどの場所になるかは分かっていませんが、『三菱社誌』の大正3年の情報には「瓦斯ノ鼻表交番所附近ノ住宅ヲ倒壊シ進ンデ第三坑捲機械室窓ヲ破リ」の記載が解決のヒントになるのではないかと思います。あと、
「瓦斯鼻」の情報としては大正3年の「瓦斯鼻防水工事費」があります。
また、昭和十年代から二十年代半ばかけて端島に住んでいらっしゃった先輩からは、「端島には警察官が2名いたという情報があるがそれは交替の時だけではないか?。」との情報をいただきました。
《三菱端島炭鉱の炭鉱労働者が住むアパート群=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町》
< 「西日本新聞社提供」(写真) 「許諾済」 フォトライブラリー > 左上の写真とは反対側の48号棟側からの撮影で、正面の石積上にある建物は14号棟、下の段の左側にある建物は20号棟(日給)、右側の建物は21号棟となります。
そして、20号棟と21号棟の間の空間には、ブランコや砂場らしきものがあり、多くの子どもが遊んでいますが当時は公園があったようです。
ここの場所には、後日、生協として使用される建物が建つこととなりますが、
昭和34年撮影の写真を見ますと、生協の建物が建っているようなので、ここの公園は写真撮影の時からそんなに長くは存在しないようです。
ちなみに、昭和40年代になるかと思いますが、一度だけ20号棟の2階岩盤側から下る通路を通って、この公園があった場所に出た覚えがあります。その時は、公園の跡形は何もありませんでしたが、生協の建物があってもかなりの広さがあったように覚えています。なお、その時はブランコの先に写る穴(うる覚えですが、穴の入口には木製の格子が設けられていて中には入れないようになっていました。)を非常に大きく感じたものですが、この写真を見ますと、そんなには大きくなかったようです。