○想像・30号棟の建築過程

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

〔 建築の背景 〕

 大正3年における端島での暴風雨被害・激浪被害回数については、私が把握できているだけでも<三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十三』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊>に 3回(6月3日、7月26日、8月24日) の記載があり、その状況は大正3年における九州全体を対象とした <神戸大学新聞記事文庫 鉱業 第1巻 記事番号89 福岡日日新聞 1915.03.14-1915.03.16 (大正4)、[大正三年九州]昨年の鉱業界(上・下)、福岡鉱務署調査> においても「高嶋(端嶋)香焼及宇都地方の諸炭山に在りても夏期中数次の暴風雨に因り坑外の諸設備を破壊せられ高嶋の如きは其の惨害特に甚しきものあり之が復旧に多大の費用と労力とを消費せり」と記載がなされ被害が大きかったことがうかがえます。
 30号棟の建築工事予算については、私が把握できているだけでも下表のとおり2回の記録があり、当初工事予算と思われる 「四階建坑夫社宅建築費」 はその時の災害復旧経費と思われる 大正3年度の高島炭坑起業費追加認許(8月25日付) において予算化がなされているようで、30号棟が建築されることとなる要因の一つには大正3年における暴風雨等被害があったものと思えますがいかがでしょうか?。また、30号棟の追加工事予算と思われる「四階家社宅建增工事費」には「建增」の名称が含まれていることから、当該工事予算は「四階」を超える部分の工事予算ではないかと思えますがでしょうか?。
 ちなみに、 その頃の端島 の四階建以上の建物としては、高台に 旧14号棟 (5階建・建物の形など30号棟と共通点がある建物と思っています。)と 旧15号棟 (4階建)の二棟が存在していたようで、ようやく、低地でも高層?建物が建築されることとなるようです。


〔 予算・決算 〕

○予算(現在把握できている項目のみです。)

項   目金額(円)備          考
四階建坑夫社宅建築費 27,880
<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十三』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、二〇五二~二〇五四頁」の「社誌第二十一巻 大正三年 高島炭坑起業費追加認許」より>
「四階建」となっていますが こちら の情報により30号棟のことと思います。
四階家社宅建增工事費 14,400
<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十四』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、二五六三~二五六五頁」の「社誌第二十二巻 大正四年 八月二十一日 各炭坑起業」より>
大正四年度追加ないし大正五年度の予算であって、「四階家」の名称から30号棟追加工事予算のことと思います。
42,280

○決算

名   稱起工年月日竣工年月日決算金額備   考
四階建坑夫社宅建築費四、 六、一〇五、十二、三一27,880.00
<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十六』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、三四一九~三四二二頁」の「社誌第二十三巻 大正五年 十二月三十一日 端島四階建坑夫社宅竣成外竣成起業」より>
同  追加費19,690.74
47,570.74


〔 4階建てから7階建てへの増築時期 〕

○各種情報


  • 三菱社誌の端島四階建坑夫社宅の記載として、大正4年6月起工、大正5年12月竣工の記事があるが、7階建てという記載はどこにも見あたらない。上部三層がいつ増築されたかの記録は今のところ見つかっていない。しかし、大正14年の会社の台風記録写真には明瞭に7階建てが写っているので、恐らく4階竣工後間をおかず継続的に増築工事が行われたものと推定できる。

<以上、「阿久井喜孝 他 編著、『軍艦島実測調査資料集』、東京電機大学出版局、1984、p.638」より>


  • 大正5年4月10日の「大阪朝日新聞」(12,289号)の高島炭坑の紹介の記事には、「東京の銀座街道ならいざ知らず斯かる絶界の一孤島に,・・・・・・鉄筋コンクリートを以てせる七階の高層が打建てられんとは恐らく何人も想像し得ない所であらう」とある。

<以上、「三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、p.269」より>


  • 端島において高層鉄筋コンクリート造り住宅が最初に建築されたのは30号アパートであり、その工事は大正4年6月に着工、翌5年12月に7階建てとして完成した。

<以上、「三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、786頁」より>


  • 大正5年 1916 12.-端島に鉄筋コンクリート造り4階建社宅落成(30号),継続して7階建に増築

<以上、「三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、p.519」より>


  • 端島に坑夫住宅を鐵筋「コンクリート」で先づ七階建を造り次いで九階を建てた、併し之は地面がなく埋築は困難なので廣さを大にする代りに止むなく空中に延ばしたに過ぎないが、之は洋行して「ニューヨーク」や「シカゴ」で高層建築を澤山見て帰つたのでこゝに考が及んだ次第で、建築工事の施工方法も之れに學んで二階づつ仕上げては直ちに坑夫を住居せしめ段々その上を仕上げたのであつた。

<以上、「日下部義太郎、『相知、高島の二十年』、石炭時報、第三巻第十一号、昭和三年十一月、三五頁」より>
※この時の洋行であるかは不明ですが、<三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十二』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、一七〇〇頁>には「社誌第二十巻 大正二年」として「日下部義太郎英獨米出張」のことが記載されており、その中には「出張日数ハ往復滞在ヲ通ジ約七ケ月トス」の記載があります。


  • 同坑に於いて最も驚異すべきは工費五萬圓の豫算を以て目下鐵筋コンクリート七階建の壮大且堅固なる坑夫共同生活所の建設されつゝあること
  • 階下の一室を開放して娯楽塲を設け一般行商人の販賣所乃至菓子店、雑貨店などを張るに供すべき筈であるが三階までの工事略成つて既に坑夫の楽しげなる生活が営まれつゝあること

<以上、「『大阪朝日新聞』、大正5年4月10日、第12,289号「九州版」」より>


  • 大正6年(1917)実習の端島坑実習報文では、「坑夫長屋ノ如キモ鉄筋混凝土ノ七階建ノ空ニ聳ユルアリ、又十二階建ノ坑夫納屋ノ設計既ニ成リ、近ク其ノ施工ニ着手セントス」と記述されている旨が記載されています。

<以上、「国立情報学研究所「CiNii 論文 - 9080 大正・昭和初期の高島炭坑端島坑社宅街の変遷(社宅,建築歴史・意匠)」」より>
※七階建が30号棟で十二階建が日給のことを指していると思います。


○管理人記載

 <『大阪朝日新聞』、大正5年4月10日、第12,289号「九州版」>には「三階までの工事略成つて既に坑夫の楽しげなる生活が営まれつゝあること」の記載があり、大正5年4月頃には既に3階迄(地階+三階の実質四階の可能性もあり得ると思っています。)ができていて、大正5年末迄にはまだ相当の期間が残っていることから、その後、工事が進み、三菱鉱業社史の「大正5年12月に7階建てとして完成」となったものと思われますがいかがでしょうか?。


〔 建物関連情報 〕

  • 端島における最初のRC構造物であり、我国最初のRC高層アパートである。当初、世帯持ちの坑内夫(採炭夫)の社宅として建てられる。なお、2年後の建設である日給社宅は家族持ち坑外夫のための住居である。

<以上、「阿久井喜孝 他 編著、『軍艦島実測調査資料集』、東京電機大学出版局、1984、p.635・637」より>


  • これらの建物が最初建築された当時,我が国には住宅用の高層鉄筋コンクリート造り住宅は全くなく,前記のとおり端島では狭い空間の中で大正の初期に既にこのような建築が行われたことは,当時としては画期的なことであった。

<以上、「三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、787頁」より>
※これらの建物とは30号棟と日給のことのようです。


  • 全戸数は二百十余戸に達し各戸四畳半若くは六畳の室を備え一戸毎に炊事場も付随して居るから個々独立したる生活を営み得るのである、只物洗場と便所のみは各一階の共同に供されて居るが洗場は常に海水を送られ、便所は是亦海水を以て絶えず洗浄さるゝ仕掛なので甚だ清潔であること
  • 一階毎に各総代が置かれ萬事秩序を保つやうにしてあること
  • 此新建築物に止まらず舊建築に属する四階建(?)の職員共同生活所が設けられて居る、こは要するに空地尠く而も將來益發展して愈其狭隘を告げんとするを慮り一方坑夫の至便なるべきを念ひて計畫された事に違ひないこと

<以上、「『大阪朝日新聞』、大正5年4月10日、第12,289号「九州版」」より>
※舊建築に属する四階建(?)の職員共同生活所ですが、この時点では五階建ての旧14号棟も完成していました。


〔 階数による住居空間右端部分の構造の違い 〕

<2016年撮影>
 30号棟の南側(南部側)光景です。8層(地下1階・地上7階)の建物であることがお分かりいただけるかと思いますが、建物正面にある住居空間右端部分の構造を比較しますと、2~7階では雨戸を納める戸袋部分がありますが、地階と1階(緑色の線の部分)には見当たりません。また、戸袋部分も階数によって違いがあるようで、2・3階(青色の線の部分)の戸袋部分は、4階~7階(黄色の線の部分)の戸袋部分と比べて少しくぼんでいるようで、住居空間右端部分の構造には3通りのパターンがあるように思えます。
 階数によって構造に差が生じた理由は存じていませんが、 『相知、高島の二十年』の「二階づつ仕上げては直ちに坑夫を住居せしめ段々その上を仕上げたのであつた。」 『大阪朝日新聞』の「三階までの工事略成つて既に坑夫の楽しげなる生活が営まれつゝあること」 の記載のとおり、30号棟は階を少しずつ造っては人々を入居させていましたので、上の階を建築する際には下の階で得られた経験を基に少しずつ構造を変えていったからではないかと思いますが如何でしょうか?。
 また、30号棟の西側(外海側・写真の左端部分)には、 同潤会アパート風の出窓 やダストシュートが見えていますが、これらは建築当初から設けられていたのではなく、後日の設置となっていて、 便所部分の外壁についても時代により相違 があり、30号棟は建築時から少しずつ改良されていった建物のように思っています。


 なお、30号棟の南側(南部側)壁面の「 階数による住居空間右端部分の構造の違い 」について、他の面の壁面写真も参考としながら、私が思いついた点を下表にまとめてみましたのでご覧ください。ちなみに、思いついた理由等は下段掲載の写真説明に記載しています。

階  数住居空間
右端部分
の凡例色
住居空間右端部分の構造
人が住んでいた当時上段写真撮影時
地階・1階緑色地階:不明、1階:戸袋部分なし <写真1> <写真2>戸袋部分なし <写真3>
2・3階青色戸袋部分あり(外側が木製で内側はコンクリート製) <写真4> <写真5>戸袋部分あり(但し、経年により、外側の木製部分が朽ちてなくなり、内側のコンクリート製部分のみとなったため、4~7階の戸袋部分と比べて、くぼんで見えるようになった。) <写真3>
4・5・6・7階黄色戸袋部分あり(内外ともコンクリート製) <写真4> <写真5> <写真6>戸袋部分あり(内外ともコンクリート製) <写真7>


写真
《 30号棟模型 <長崎大学大学院工学研究科インフラ長寿命化センター所有 》
 30号棟の3D模型ですが、平成22年度に調査を行って模型作成を行ったそうです。ついては、閉山後、かなりの時間が経過した状態の模型ですので、木製部分は経年により朽ちてなくなった状態での模型となっているようです。私が、「 階数による住居空間右端部分の構造の違い 」について、考えるようにようになったきっかけとなる模型です。


○東側(砿業所側)光景

写真《 30号棟模型 <長崎大学大学院工学研究科インフラ長寿命化センター所有 》
 住居空間の右端部分ですが、1階には戸袋部分はなく、2階以上から戸袋部分があって、2・3階の戸袋部分は、4~7階の戸袋部分と比べて少しくぼんだようになっています。なお、地階は30号棟の南側(南部側)と西側(外海側)にしか面していませんでしたので、こちら側の光景に地階は写っていません。


写真<出典:NPO西山夘三記念文庫編集、編集代表松本滋『軍艦島の生活』(創元社)より>
 左の写真は、<NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、『軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』、株式会社創元社、2015年、42頁>の下段に掲載されている30号棟の2階以上が写っている写真ですが、著作権者及び出版社様のお許しをいただき掲載させていただきました。
 写真をみますと、2~7階の戸袋部分と思われる箇所ですが、2・3階は木製ですが、4~7階はコンクリート製となっているように思われます。


写真 昔の絵葉書の《長崎港外端島名勝 コンクリ-七階建坑夫ノ住宅》から建物部分を拡大しました。
 残念ながら、2・3階の戸袋部分が木製であるということは分かりませんが、それでも私には4~7階の戸袋部分とは構造が違うように思えます。また、1階部分では戸袋部分はなく、左から2スパン目にはガラス戸や手すりもない箇所がありますが、昭和十年代から二十年代半ばかけて島に住んでいらっしゃた先輩に伺いましたところ建物外に出る通路部分だったそうです。


○南側(南部側)光景

写真《 30号棟模型 <長崎大学大学院工学研究科インフラ長寿命化センター所有 》
 こちらも、住居空間右端部分の戸袋部分が2・3階では4~7階と比べて少しくぼんだようになっています。また、地・1階においては戸袋部分はなかったように思えます。


写真<2015年撮影>
 低層階の部分拡大です。地階が少し見え、地階から4階までの光景となりますが、こちらの写真でも、2・3階の住居空間右端の戸袋部分は少しくぼんだ状態となっています。
 ついては、上段に掲載の<NPO西山夘三記念文庫編集、編集代表松本滋『軍艦島の生活』(創元社)>写真の2・3階とこちらの写真の2・3階の状況を考え合わせますと、2・3階の戸袋部分は、外面が木製で内側はコンクリートだったのが、外側の木製部分が朽ちてなくなり、現在の少しくぼんだ状況となっているように思いました。
 なお、1階において赤色の矢印の先の部分ですが、上層階ではコンクリート壁となっていますが1階では空間となっていて、また、青色の矢印の先の部分では上層階と違って柱の間全てが空間となっています。


写真 昔の絵葉書の《長崎港外端島名勝 コンクリ-七階建坑夫ノ住宅》から、撮影の角度は違いますが、上段写真の青色の矢印と赤色の矢印の先の部分を切り出しました。
 先ず、赤色の矢印の先の部分はコンクリート壁ではなくガラス戸となっているようです(2階はコンクリート壁)。また、その隣の青色の矢印の先の部分は柱の間全てがガラス戸になっているようです(2階は柱の間の半分ぐらいがガラス戸)。


○西側(外海側)光景

写真《 30号棟模型 <長崎大学大学院工学研究科インフラ長寿命化センター所有 》
 上空から見る光景になります。
 昭和28年頃の改修により設けられた同潤会アパート風の出窓が見えていますが、改修前となる1952年撮影の<NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、『軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』、42頁>の上段の写真を見ましても前出同様、2・3階の戸袋部分外側は木製のようでした。なお、同潤会アパート風の出窓は外海側の一面だけで他の三面には設けられてなく、その情報については こちら をご覧ください。


○北側(26号棟(旧船頭長屋)側)光景

写真《 30号棟模型 <長崎大学大学院工学研究科インフラ長寿命化センター所有 》
 上空から見る光景ですが、26号棟が載っている石積側とを結ぶ連絡通路が見えています。


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