《 長崎港外端島名勝 コンクリー七階建坑夫ノ住宅 》 <所有絵葉書> 30号棟を東側(鉱業所側)から見る光景かと思います。閉山間際の頃の30号棟東側(鉱業所側)には鉱業所関係の建物等が所狭しとありましたが、絵葉書の頃には空地も残っていたようで、この空地に、後日、下段の絵葉書に写る《端島炭坑小動物園》が設けられるのではないかと思っています。ついては、左絵葉書の撮影時期は、下段の絵葉書に写る《端島炭坑小動物園》の存在時期を考慮して、大正年間ではないかと思いますが如何でしょうか?。
《 端島炭坑小動物園 》 絵葉書を拡大して見ると、写真中央の建物の右側内部には小鳥の巣らしき物が、左側内部には植木鉢らしき物が見え、また、その建物の左側にある塔のような建物の中にも鳥らしき姿が見えるようです。私にとって、この絵葉書を見るまで、島に、小動物園があったことは全くもって知りませんでした。なお、小動物園が建つ場所ですが、後年、
第二立坑(掘り下げ後) の巻上機上屋が建つ場所か、すぐ脇の場所ですので、あくまでも想像ですが、第二立坑(掘り下げ後)時には支障建物で取り壊されているのではないかと思います。
《 長崎港外三菱高島礦業所 端 島 坑 (七階建社宅方面) 》 <所有絵葉書> 30号棟西側(外海側)を望む光景です。撮影地点については、その昔に建っていた
9号棟 付近からか、
25号棟 の屋上からではないかと思いますがいかがでしょうか?。30号棟南側(南部側)には長屋が並んでいて、30号棟西側(外海側)にも閉山の頃にはなかった建物が見えています。
30号棟で気になった点は、30号棟西側(外海側)右端の閉山時に便所があった箇所の壁(窓)の構造が閉山時とは異なっていて、すぐ下の絵葉書においても30号棟南側(南部側)左端の閉山時に便所があった箇所の壁(窓)の構造も閉山時とは異なっていることです。ついては、閉山時に便所があった箇所の壁(窓)は絵葉書撮影以降に改造が行われているようで、閉山の頃には設置されていた
ダストシュート や
同潤会風出窓 もこの絵葉書には写ってなく後日の設置となるようです。また、30号棟の窓枠部分ですが笹竹のような物が飾られている箇所があるように思います。
《 長崎港外三菱高島礦業所 端 島 坑 (七階建社宅方面) 》<所有絵葉書>の部分拡大 絵葉書から30号棟窓枠部分にある笹竹のような物を部分拡大した写真となります。誤報でしたらお許しいただきますが、写真には短冊などの飾りが写っているようで、当該絵葉書は七夕の時の撮影ではないかと思いますがいかがでしょうか?。
ちなみに、部分拡大した写真を見るまでは笹竹のような物しか分からずに、島の先輩から
山神祭の時は笹竹が立てられる ことをお伺いしていましたので絵葉書は山神際の時の光景かと思っていたところですが、はてさて正解は七夕の時?、山神際の時?、それ以外の時?のいずれの光景となりますでしょうか?。なお、拡大しますと30号棟南側(南部側)の長屋部分でも笹竹と思える物が飾られているように思います。
《高嶋炭坑ゑはかき-上(社宅内の鉱夫)・右(端嶋七階建鉱夫社宅)・左(高嶋鉱夫社宅)》 <昔の絵葉書より 所蔵: 九州大学 記録資料館> 絵葉書右側の写真ですが、30号棟の手前(南部側)には多数の長屋が存在しています。貴重な資料が数多く収められてられている
九大コレクションでは、左絵葉書の拡大画像が閲覧できますが次がそのURLです。
http://hdl.handle.net/2324/403372 絵葉書右側の写真に写る30号棟左端の箇所(便所)は、4・5階部分しか見えていませんが、外壁の様子は閉山時の頃と違っているようで、閉山時にはなかった土管のような物も見えていますので、30号棟の便所部分については建物竣工後に改修が行われているように思います。
比較写真<2010年撮影>
左写真の建物左端の箇所と、上記URLからリンクする写真の建物左端の箇所とを比較願います。
いろんな写真等を見比べますと、建物左端の箇所(便所)の外壁は遅くとも昭和20年代中頃までには閉山時の外壁に変わったのではないかと思っています。
《三菱高島礦業所 端島坑七階建屋上及南部運動場》
<昔の絵葉書から 所蔵: 九州大学 記録資料館> 30号棟の屋上と南部の光景ですが、南部が運動場となっていますので昭和になってからの撮影かと思います。30号棟屋上への階段の手前には何かの小屋が見え、小屋の手前には、骨組みのみの構造物が見えています。
なお、第二次世界大戦の終了間際に、30号棟屋上に設けられた速射砲については、
<「燃ゆる孤島 軍艦島22年間の思い出」 (2016年3月 株式会社文芸社)より転載・引用>をご覧願います。
〔 同潤会風出窓 〕
30号棟の西側のみになりますが、昭和20年代末頃には同潤会風出窓が設置されます。内容については以下をご覧ください。
・ | この30号棟は、当初下層の四階が完成し、その後上層三層を増築したものだが、技術的未熟や材料の耐久性不足などで下層ほど痛みが激しかった。そのため昭和28年に上層部をそっくり残したまま下層の鉄筋を取り替えて、全部新たにコンクリートを打ち直し、外観も当時流行の同潤会風出窓に変えてしまうという離れ技を、坑内用鉄パイプで支持しながらやってのけている。 <伊藤千行-写真 阿久井喜孝-文、『軍艦島 海上産業都市に住む』、(株)岩波書店、1995、p.44より>
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・ | 下層(半地下付)の四階と上層3階を二期工事に分けて建てられたが、下層は材料の粗悪さや護岸をのりこえる波浪の影響で上層より劣化が激しかったために一九五三(昭和二八)年に上層をジャッキ付鉄パイプで支えて下層のRCを新しい丸鋼入りで打ちなおしている。(・・途中省略・・)この部分は外観上も同潤会アパート風の出窓に改築されているので、すぐそれとわかる。 <阿久井喜孝 他 編著、『[復刻]実測・軍艦島』、鹿島出版会、2011、[解説]歴史遺産・軍艦島p.23より>
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・ | 昭和29年作成の図面には、柱梁の旧鉄筋を除去した上で新たに丸鋼の鉄筋で巻立て、柱や梁を太く補強が全階にわたって計画されていたが、実測調査の結果、昭和29年の補強は地階から4階まで実施され、5階以上の補強工事は、何らかの理由で行われなかったものと思われる。
<阿久井喜孝 他 編著、『軍艦島実測調査資料集』、東京電機大学出版局、1984、p.638・639より> |
《城壁を思わせる護岸と鉄筋・木造住宅のコントラストが美しい。(昭和28年頃)》 | <写真・説明は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
写真右端に写る30号棟の低層階ですが、まだ、同潤会風出窓に変わっていません。ちなみに、『[復刻]実測・軍艦島』内の解説編である「歴史遺産・軍艦島」には、「打ちなおした部分は同潤会アパート風の出窓に改築されているので、すぐそれとわかる」との記載があります。
昔の絵葉書から30号棟部分を拡大しました。30号棟の低層階ですが、同潤会風出窓に変わる前の光景です。
《端島上陸桟橋落成記念 昭和廿九年八月 西日本新聞社撮影》より部分拡大 〔西日本新聞社
フォトライブラリー〕
30号棟西側(外海側)の護岸と30号棟を結ぶ連絡橋のような構造物が見えています。30号棟は、
昭和28・29年頃に改修工事が実施されているようなので、その際に使用されたものではないかと思いますが如何でしょうか?。
<写真は、「長崎グラフNO.2 昭和三十一年三月一日発行」より> 南部側から望む光景ですが、30号棟や25号棟の手前には、所狭しと木造家屋が建っています。また、30号棟の低層階では、同潤会風出窓への改造が行われていることやダストシュートが設けられていることも分かります。
<端島支所下っぱ用務員さん投稿写真>
閉山後の写真ですが、左写真と比較しますと、1~4階の窓が出窓に変更されているのが分かります。ちなみに、1階出入口の右側にあるゴミ収集箱?は形を保っていますが、その上部のダストシュート部分は剥がれ落ちてしまっています。
〔 賃金支給所 〕
<村里 榮 氏撮影> 「落ばん.側壁崩壊防止月間」とあるポスターの下の部分が賃金支給所になりますが、給料日の光景でしょうか?。当時、子どもだった私にも、給料の受け取りに必要だったと思われる品の記憶が、若干ですが残っています。
なお、賃金支給所の右側にあった通路を挟んだ岩礁部分には大きな掲示板(コンクリート製)がありましたが、その裏側には大きな水槽があって、子どもの頃は、その場所を水族館といっていたとのことや、いろいろな魚、タコ、カニ、等珍しくてよく見ていたとのお話しを島の先輩から伺いました。ちなみに、長崎民友新聞(昭和24年4月6日付)に掲載されている端島の記事には、設置場所まで記載はありませんが、「小さな水族館が出来て近くお魚がはいることになつています」の記載がありました。
〔 その他の光景 〕
<村里 榮 氏撮影>
左側が30号棟で、右側の擁壁上には26号棟(旧船頭長屋)がありました。また、擁壁の先には25号棟があり、30号棟の右側に少し見えている建物は31号棟です。
写真の中段と上段の位置には30号棟から延びている連絡通路が見えていますが、26号棟や25号棟方面への移動には大変重宝した通路ではなかったかと思います。
なお、一番下の建物横の通路は、鉱業所入口方面と31号棟や25号棟方面を結んでいた通路で、30号棟2階と同じ高さに位置していましたので、写真に写る30号棟は2~4階部分となります。
ちなみに、こちらの面では同潤会風出窓への改造は行われていません。
〔 1階・地階 商店情報 〕
<『大阪朝日新聞』、大正5年4月10日、第12,289号「九州版」>の記事には、
「階下の一室を開放して娯楽塲を設け一般行商人の販賣所乃至菓子店、雑貨店などを張るに供すべき筈であるが三階までの工事略成つて既に坑夫の楽しげなる生活が営まれつゝあること」 との記載があり、最初から、建物内に商店等を設ける計画があったようですが、
< 軍艦島デジタルミュージアム >に掲載されている
「(元島民コラム ) 昭和20年前後の端島での生活」 では「30号棟の1階は商店街。ニコニコ食堂、履物店、時計店、呉服店、他の商店がならんでいた。」との記載(個人名と思われる部分は削除しました。)があり、昭和20年前後の1階は本格的な商店街だったように思われます。また、他の先輩からも「1階には全面にお店があった。」や「地階については小規模ではあるが、屋内階段にて、1階から地階に降りた箇所には、住居が2軒あり、戦後間もなくの頃は「一杯飲み屋」だった。」とのお話しを伺っていますが、「ニコニコ食堂」については別の場所にあった駄菓子屋?の「ニコニコ」の方を覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか?。
地階のことと思える事項については<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、2005(第1版1984)>に以下の記載もあります。
- 地階には売店があった。〔193頁〕
- 「図版2-63 30号棟地下1階,1階及び基準階平面図」にある地下1階の図面を見ますと、屋内階段の南側(南部側)には部屋が描かれていて、「図版2-63」の注釈には「三菱石炭鉱業KK高島砿業所施設課保管の補修時作成図面(年代不明)からコピーしたものを縮小したものである.単純な図面だが,閉山時使用されずRC床で入口をふさがれていた半地下室の様子と,メートル法よるスパン割を判定する手がかりになる資料である.」との記載があります。〔225頁〕
- 「昭和35年の日付のある30号棟1階地下室部分の改装による集会所(畳約28畳敷き)の設計図も残されている」〔640頁〕
- 「30号棟の海側の一部を占める地階は地形の傾斜のため二方が岩盤で,開放された側も島出入口トンネルの入口に面して居住条件は極めて悪い.人口密度の最大であったころ,昭和29年の補強設計図面にキイプランとして記載されている線描きの部屋割り図(図2-63参照)には,大小6室の居室と炊事場が示されており,独身労働者の合宿として使われていたようである.後に生協売店として転用され,閉山時点では,1階へ昇る階段がRCスラブで閉鎖され,海側トンネル通路に面した部分だけが日常食品等の小店舗に使われていた。」〔639頁〕
ちなみに、私が知っている生協(昭和40年頃?)は20号棟と21号棟の間にありましたので、生協売店として使用されたのはそれ以前のことでしょうか?。また、間違いでしたらお許しをいただきますが、昭和40年代においてはドルフィン桟橋に向かうトンネルの入口手前にあった30号棟の地階部分(実質的には地表部分)には板で塞がれた部分が何箇所かあり、父に確認すると昔のお店だった跡とのことで、その頃には1階部分の商店街もなかったように思います。
なお、昭和十年代から二十年代半ばかけて島に住んでいらっしゃった先輩からは「地階部分は便槽や資材倉庫として使用され1階との階段部分は塞がれていた」とのお話しも伺っていますので、特に地階部分の用途はかなりの変更があったように思われます。
〔 30 号棟模型 (1/30 scale model of Building No.30) 〕
長崎市松が枝町にある
「軍艦島デジタルミュージアム」にて、製作・展示されている30号棟模型ですが、工期は約6ヶ月で、サイズは高さ50.5cm、横91cm、奥行75cmとなっていて、かなりの大作です。左の写真では、建物の左面が31号棟側で右面が南部側になります。
なお、私としましては、建物正面の一番下に見えている階を「地階」と呼んでいますが、写真のとおり、地盤の影響でしょうか?、他の階と比べて狭い階とはなっていますが、通路に面している階です。なお、あくまでも私の想像ですが、30号棟は、地階の上にある広さが同じ7層をもって7階建てと呼ばれているのでないかと思いますが如何でしょうか?。
← 建物の右側は鉱業所側で、右下部分には賃金支給所の窓口も見えています。
↓ 部屋部分の壁が開けられていて、内部の様子が分かるようになっています。
方向的には25号棟(清風荘)側からの光景で、25号棟(清風荘)側に繋がっていた通路の姿も再現されています。
端島の30号棟は建築後100年を過ぎていて、経年のために壁はかなり壊れ木の部分もほとんど残っていませんので、往事の姿を思い浮かべることはかなり難しいかと思いますが、この模型からは、人々が住んでいた頃の30号棟の姿を思い浮かべることができるように思います。
← 屋上の光景ですが、26号棟(旧船頭長屋)からの光景になるかと思います。屋上の奥(南部側)には穴が開いていますが、建物内部を見ることができるようにした穴です。
↓ その穴の部分の拡大ですが、建物内部には当時の生活の様子も再現されています。