1927年 | 昭和2年 | 昭和館(50号棟)開館。 |
1929年 | 昭和4年 | 第四坑出水<※> |
1930年 | 昭和5年 | 5月、第二立坑掘下げ・堀削着手。 台風で西海岸破壊される。 |
1931年 | 昭和6年 | 第6回埋め立てが行われ現在の形となる。 新積込桟橋の建設により5,000t級汽船直積みが可能となる。 |
1932年 | 昭和7年 | 給水船三島丸進水。坑内運搬が馬からベルトコンベアに変わる。 |
1933年 | 昭和8年 | 鉄骨による積込桟橋に改造<◇> 女子の坑内労働が禁止される。 |
1934年 | 昭和9年 | 高浜村立端島尋常高等小学校の新校舎が完成。<■> |
1935年 | 昭和10年 | 2月、事業用地整理のため製塩事業廃止。 右卸五片爆発殉職者合同葬<※> 11月、第三立坑廃棄。 |
1937年 | 昭和12年 | 20号棟の屋上階に社立幼稚園設立。島の先輩方によりますと、昭和13年には、小学校の横にあったとのことです。 |
1938年 | 昭和13年 | 12月13日 端島郵便局電信及電話通話事務開始 [官報第3580号 昭和13年12月09日(国立国会図書館デジタルコレクション)] |
1941年 | 昭和16年 | 高浜村立尋常高等小学校は端島国民学校に改称。<■> 年間出炭最高記録41万1,100トンを達成。太平洋戦争突入。 |
1942年 | 昭和17年 | 第二竪坑口火災発生<◇> |
1943年 | 昭和18年 | 坑内労働時間制限令廃止、坑内勤務時間12~15時間となる。 7月1日、梅ケ崎警察署の高浜村端島に、巡査部長派出所ができる。<■272頁> |
1944年 | 昭和19年 | 報国寮(65号棟)建設。 |
1945年 | 昭和20年 | 石炭積み込み中の白寿丸が魚雷を受け沈没。二子発電所が米軍の爆撃を受け二坑底坑道まで水没。太平洋戦争終結。 |
1946年 | 昭和21年 | 端島労働組合結成。炭坑向け特別物資の配給決まる。 鉄柱カッペ導入<◇> |
1947年 | 昭和22年 | 高浜村立端島小学校に中学校を併設。<■> 高浜村端島出張所を端島支所とする。<■> 社宅入居割当点数制度実施。公衆電話架設。 |
1948年 | 昭和23年 | 高島、端島両鉱区に分割認可。この年、人口4,526人に急増。 |
1949年 | 昭和24年 | 高浜村立端島幼稚園発足(泉福寺利用)「緑なき島」(松竹映画)で端島紹介される。 スキップ捲運転開始<◇、◆740頁> |
1950年 | 昭和25年 | 1月、第二立坑1,500馬力巻上機を新調(往事端島の露頭上八尺層の浅部採掘による地盤沈下のため、第二立坑巻上機の基礎が傾斜したため)。<●> 高島、端島沖海底調査開始<◇> |
1954年 | 昭和29年 | 第1回ドルフィン桟橋完成。海底水道敷設工事着工。 3月27日 学校プール埋立 |
1955年 | 昭和30年 | 昭和28年9月の町村合併促進法により、百回を越す記録的な合併協議会を行って高浜村から高島町に編入。 8月、二坑櫓狂直し扛上作業。 |
1956年 | 昭和31年 | 8月16日、9号台風。この年は12号台風も強襲?。台風により南部岸壁、ドルフィン桟橋、端島プール破壊。 |
1957年 | 昭和32年 | 海底水道完成。なお、清水運搬船の朝顔丸は、海底水道の完成後も廃船されることはなく、定期便等や渇水時には本職の清水運搬船として運行された。 |
1958年 | 昭和33年 | 第2回ドルフィン桟橋完成(翌年流出)。 |
1959年 | 昭和34年 | 台風により、上陸桟橋、積込桟橋流失<◇> |
1960年 | 昭和35年 | この年5,267人と最高の人口を記録。 人口密度は東京都の9倍強あった。 端島沖探炭工事に着手<◇> |
1961年 | 昭和36年 | 上層開発工事疎水卸を中止水没<◇> |
1962年 | 昭和37年 | 3月31日、夕顔丸による長崎~高島~端島航路が廃止される。第3回ドルフィン桟橋完成。 4月1日、中ノ島公園完成(昭和35年12月1日中ノ島水上公園として着工、展望所・広場・船着場などを設置)。<▲> |
1963年 | 昭和38年 | 緑化運動のきざしがみえはじめ、園芸同好の有志、各地区子供会など、高島から土を運び、屋上、空地などに花壇、温室等をつくる。 |
1964年 | 昭和39年 | 2月20日、夕顔丸が佐世保市の佐藤造船所で解体される。 ガス燃焼、下部区域水没放棄 従業員1,056人を524人に減員、1年間採炭休止、昨年度人口密度4,873人から3,391人に急減。 8.17 自然発火,8片以深水没,深部放棄<●527頁> |
1965年 | 昭和40年 | 三ツ瀬新坑より出炭開始。 |
1966年 | 昭和41年 | 空気充てん機導入 石炭汽缶を重油汽缶に切替え<◇> |
1968年 | 昭和43年 | 急傾斜区域、偽傾斜面払採炭開始 <◇> |
1969年 | 昭和44年 | 10月1日 三菱高島炭砿株式会社発足 |
1970年 | 昭和45年 | 端島沖掘進中止に関する協定締結<●425頁> |
1972年 | 昭和47年 | 11月25日砿命問題報告会 組合は、報告大会を開き組合独自の見解として、49年1月を中心にその前後が閉山の時期と発表。<▲> |
1973年 | 昭和48年 | 2月6日、端島で大火、午前1時35分出火、木造24号全焼、31号一部延焼、1名焼死、43世帯137名が被災。<▲> 2月18日、端島ごみ処理場が完成。<▲> 9・10月 閉山交渉 12月15日 三菱大夕張炭砿,三菱高島炭砿の両社を合併し,三菱石炭鉱業株式会社発足<◆946頁> |
1974年 | 昭和49年 | 1月15日 端島砿閉山式(各種資料) 、「サヨナラ ハシマ」の人文字撮影(週刊朝日・S49.2.1・11頁、長崎新聞・S49.1.16・朝刊9面) 2月6日 坑口密閉<◎179頁> 2月26日 端島小、中学校で最後の卒業式 3月9日 鉱業権消滅登記<◎179頁> 3月30日 端島支所、各施設閉所式並びに小中学校廃校式を挙行。<◎180頁> 4月17日 高島町役場端島連絡所(旧端島支所)閉所 (長崎県立長崎図書館所蔵写真) 4月20日 全員の離島が完了し無人島となる。 10月 朝顔丸廃船処分。 |
1984年 | 昭和59年 | 高島町福祉会館で、端島砿閉山10周年記念式典挙行(参加者350名)。 |