○年表 : 大  正

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

1913年大正2年五階建社宅落成<●518頁>
1914年大正3年暴風雨被害<※>
激浪被害<※>
暴風雨被害<※>
四階建坑夫社宅建築費認許<※>
1915年大正4年○5月1日、12尺層着炭祝、全部休業し、端島鎮守なる金比羅神社の臨時祭典を行い御輿の渡仰 坑夫側及料理屋組合側より俄手踊数組を出し、納涼場では当夜、芝居興行、随意観覧。花火数十発を打上げ一層の盛況をそえ全島大賑合、取締応援として巡査2名派遣
四階家社宅建增工事費起業<※>
暴風雨被害<※>
第一竪坑坑底水没<※>
1916年大正5年坑内で端島と二子を連絡する坑道掘進が開始された。これには連絡坑道に海底ケーブルの予備ケーブルを敷設する計画も含まれ,完成すれば得る所も多いと思われたが,賛否両論があり,断層突破に難渋しているうちに休止となり,その後中止されてしまった。<●269頁>
4月 高浜役場端島出張所ヲ設ク<★ 164頁>
30号棟完成<※>
高島炭坑ニ於テ従来十六歳以下ノ者ハ鑛夫トシテ使役セザリシガ三月端島坑ニ於テ十四歳以上十六歳以下ノ少年ヲ、五月女鑛夫ヲ坑内作業ニ使役ヲ試ミ結果良好ナリ
<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十五』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、二九五〇頁」の「社誌第二十三巻 大正五年 端島坑少年及婦女坑内使役」より>
3.- 三菱端島の坑内撒水管敷設工事完成(ガス爆発予防として'15年末より着手).坑内災害に対処するため高島・端島・二子島共用としてドレーガー式救助器2組を購入<A272頁>
1917年大正6年高島二子坑・蛎瀬坑の交流転換と並行して、当然端島坑の交流転換も考えられたが、端島は土地が狭く、増設の余地がないため、高島二子発電所から海底ケーブルによって送電することになった。二子の800KW1台増設に合わせて、海底ケーブル1号線が大正6年5月16日敷設され、同年12月21日に、端島への交流送電が開始された <●282頁>
八階坑夫社宅新築工事着工<※>
布教場新設工事竣工<※>
南岸鐵筋「コンクリート」突堤工事竣工<※>
1918年大正7年端島新竪坑着炭<※>
日給社宅建築。
6階建社宅落成(16~20号)<●519頁>
1919年大正8年2月、第四立坑開削着手。
1920年大正9年11月、二子~端島間の海底送電線増設が完成したため、端島発電所を廃止し、端島変電所とした<●272頁>
9階建社宅落成(16,17号)<●520頁>
1921年大正10年■長崎日々新聞が初めて「軍艦島」の名を使う。
△5月31日、三菱社の私立端島小学校が高浜村立尋常高等小学校となる。
1922年大正11年高島支部端島倶楽部建物等焼失<※>
・上陸桟橋(クレーン式)完成。
■三菱長崎造船所で進水内装中の当時の巨大戦艦「土佐」に、ワシントン軍縮により海軍から建造中止命令が出る。7月31日、土佐は海軍に引渡され、その名の土佐(高知県)沖に曳航され魚雷や大砲での実験目標として撃沈された。以後、長崎市民の目にその姿が焼き付き、大正5年以来、端島に林立する建物が土佐の姿の幻となり、軍艦島という呼び名が決定的となった。
・土佐が、大正11年8月1日、夕顔丸他曳船4隻に曳航され伊王島北方で警備艦に引渡される。
1925年大正14年・5月21日、第4竪坑を開坑(深さ370m)。海底送電線増設。
・南部、台風による被害を受ける。
キャップランプ使用開始<◇>
1926年大正15年△7月20日、青年訓練所と實業補習学校設置。

戻る

年表へ

TOP

次へ