朝顔丸・屋島丸・宮島丸

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〔 朝顔丸 〕

写真
<写真は島の先輩より>
 朝顔丸進水時の光景とのことですので、 昭和24年4月1日 の撮影となるようです。また、建造は三菱重工業長崎造船所となっておりますので、船の上部に写る構造物はガントリークレーンの姿でしょうか?。なお、朝顔丸は、元々、「清水運搬兼従業員輸送船(清水運搬船兼旅客船)」として建造されましたが、海底水道の完成後も廃船されることなく、各種作業に従事し、 夏場の渇水時 には本職?の水船に戻り渇水の危機から島を守ってくれました。

写真<写真は島の先輩より>
 こちらも朝顔丸進水式の光景です。写真右端には多くの人が乗っている台?があります。また、その台?と船の間に丸い物がぶら下がっているようですが、その正体は「くす玉」でしょうか?。


写真<写真は、「高島町政三十年の歩み 町制施行30周年記念史」より許可を頂き出典>
 私に記憶がある昭和40年代ですが、朝顔丸が高島と端島の間の海上で長い時間停泊していた光景を記憶しています。その時は何をしていたのか検討も尽きませんでしたが、もしかしたら 電力用海底ゴムケーブルの修理 を行っていたのかも分かりません。

写真
<写真は、「高島町の足跡」(平成16年12月高島町発行)から、許可を得て掲載>
 船体に識別番号が書かれている頃の朝顔丸です。


写真《時津町「みかん園」にみかん狩り、朝顔丸で端島を出発し、炭坑社に到着。(昭和46年)》
<写真・説明は、平成16年1月15日発行の「端島(軍艦島)」より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 島民のレクレーション時に、多くの島民を乗せ、長崎市小曽根の炭坑社に到着したときの光景かと思います。なお、 高島にあった高校へ登校する学生の足 としても活躍した時代(閉山間際の頃)もありましたし、学校の遠足時にも使用されていました。端島中学校最後の遠足時に朝顔丸を利用した光景()は今でも覚えています。


写真《帰りを待つ朝顔丸》  <写真は島の先輩より>
 小曽根にあった炭坑舎前の桟橋に係船中の朝顔丸です。島の先輩からは、夕顔丸のドック時には朝顔丸が代船で就航したこともあったが、その時は、速度が遅くて時間がかかり大変だったとのお話を伺ったことがあります。
 なお、朝顔丸は船体部分が黒色で「つや丸」や「せい丸」よりも若干速度が遅かったので、朝顔丸が高島から端島に向かう際に、「中の島」の島影からゆっくりと黒い船体を現す光景は強い印象が残っています。


写真
《S.46 時津にみかん狩り 出発する朝顔丸》  <写真は島の先輩より>

写真《S.47.11 「歩け歩け運動の会長崎半島野母港より脇岬海岸へ 朝顔丸で出発》
  <写真は島の先輩より>


《野母船欠航時における朝顔丸運行の想い出》

 昭和40年代の中頃だったかと思います。時化で野母船が一週間ぐらい欠航したことがありました。欠航によって、食べる物がなくなってきたとかの記憶は私にありませんが、なくなる寸前だったのでしょうか?。まだ、時化が治まっていないので野母船に替わって朝顔丸が運行し、ドルフィン桟橋に接岸して荷物を降ろした記憶があります。
 野母船は約150トンで、朝顔丸は300トン弱でしたので、その分、安定していたのでしょうか。荒波をかき分け接岸した時には感動しました。
 船から荷物を降ろし、それをリヤカーに積み替えて、高波が来て波の飛沫(しぶき)がかからないタイミングで島とドルフィン桟橋間の橋を急いで渡っていた姿もおぼろげながら覚えています。島とドルフィン桟橋間の橋に直接波がかかるようにようになると、人の生命に危険が及びますし、橋自体の存在も危うくなるので船は欠航し、橋は連結しているワイヤーを巻き上げることにより、島側に引き上げられていました。
 その時は、朝顔丸が来るという情報は島中に知れ渡っていたと思います。私は友人と護岸と同じぐらいの高さに設置された 二号炭の保管設備 があった場所から、無事に接岸できるかなあと思いながら、その姿を見ていました。
 なお、その欠航の間は、私にとって食べ物的影響はありませんでしたが、新しい本が島の本屋に届かずに、まだかまだかと思った記憶があります。
 また、その時の時化ではありませんが、明日から旅行というのに海が時化だして、長崎の旅行会社?に指定席のキャンセルを申し出ても、切符を持って来ないと出来ませんと言われ、翌日は案の定、欠航で指定席代をパーにした想い出もあります。

 昭和37年に、高島砿業所と高島炭砿労働組合並びに端島炭砿労働組合が取り交わした「社船廃止(野母船)協定 等」の「諒解事項」には、定期船運航を野母商船に切り替えても、「端島欠航が重なり、生活物資の確保その他必要を生じた際は、従来同様朝顔丸を運行する。」との記載があり、この日の出来事は既定の行動だったようですが、従来同様とありますので夕顔丸が定期船だった時代にも朝顔丸の出動があったように思われます。

 ちなみに、昭和49年9月25日に、三菱石炭鉱業株式会社高島砿業所と三菱高島炭砿労働組合とが取り交わした朝顔丸廃船取扱によりますと、「朝顔丸は昭和四十九年九月三十日をもって廃船する。」の記載があります。


〔 屋島丸 〕

写真
《「大時化の」中でも映画フィルムだけは陸上げされました。社船「屋島丸」でフィルムを運搬。》
<写真・説明は、平成16年1月15日発行の「端島(軍艦島)」より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 石炭積込桟橋の先端からの陸揚げでしょうか。

写真
<写真は、「高島町の足跡」(平成16年12月高島町発行)から、許可を得て掲載>
 こちらの屋島丸にも識別番号が書かれています。


〔 宮島丸 〕

 崎戸炭砿から高島炭砿に配属された宮島丸もあったように記憶していますが、崎戸炭砿時代は、崎戸と佐世保間を結んでいたようです。

 宮島丸の崎戸炭砿よりの転籍に伴い、昭和43年5月に会社と組合(高島?)が取り交わした(覚)には、
  ・宮島丸運行人員は、教育期間終了後8名とする。
  ・朝顔、宮島の両船の同時運行は、緊急事態以外原則として行わない。
  ・宮島丸出航準備時間は1時間とする。
 等の記載があります。

 <高島町制30周年記念史編纂部会、『高島町政三十年の歩み[町制施行30周年記念史]』、高島町役場、昭和53年、222頁>には、「45年6月には宮島丸が廃船となった。」との記載があります。また、「三菱鉱業セメント株式会社総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント株式会社、昭和51年、579頁には、「宮島丸は崎戸閉山後高島に移管され、その後エンジンを朝顔丸に移設した上46年9月売却処分された。」との記載があります。

 高島在籍は、昭和43〜46年と短い期間ですが、私も遠足で利用させて頂いた覚えがあります。本当に余計な話ですが、便所は、船の後部に2カ所あったようです。遠足時にちょっとした失敗がありまして記憶に残っています。


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