○島構築・島姿 (鳥瞰図 ・ 図面等)
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〔 鳥瞰図 〕
<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
閉山時に56号棟があった部分には建物がなく平地の状態ですので、それ以前にその場所にあった建物(焼失時合宿で、その前は
先々代学校校舎 )が昭和10年秋に焼失した後の光景のようで、右下に書かれている「2597」の数字は皇紀2597年のことを示していると思われることからも昭和12年の光景となるようです。
ちなみに、学校校舎は先代校舎で、閉山時の65号棟が建つ前の光景となります。
《三菱高島礦業所-端島坑鳥瞰》
| <前川雅夫 編著『炭坑誌-長崎県石炭史年表』葦書房(1990)より編著者及び発行所の許可を受け掲載> |
閉山時に隔離病棟があった付近の護岸がくぼんでいます。
島の先輩によりますと、そのくぼみ部分には、階段状の「すべり」があり、その沖合に、夕顔丸、村雨丸が停泊して艀で連絡していたそうです。
なお、『NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート、株式会社創元社、2015年、147頁』では、この写真と同じと思われる写真が「三菱高島砿業所1937年第2立坑完成記念ハガキ」として紹介されています。ちなみに、後年65号棟横にあった大煙突付近に設けられた煙突ですが、
大煙突と併存している時の写真 を見ますと、大煙突よりもかなり低かったように思われます。(大煙突がかなり高かった。)
〔 建物変革図 〕
<図版8-28~8-33は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載。>
〔 端島坑外図 〕
「一般財団法人 産業遺産国民会議」によるホームページ
「軍艦島の真実 -朝鮮人徴用工の検証-」には「坑外図でみる端島の変遷」のページがあり、明治~閉山(昭和49年)~現況の坑外図が掲載されています。ご興味があられる方はご覧になられてはいかがでしょうか?。
<収蔵: 長崎歴史文化博物館>
昭和20年代後半の頃の図面と思います。閉山の頃の配炭機桟橋や地下にあったベルトコンベアは第四立坑までとなっていて当該図面にてもそのように描かれていますが、「長崎縣新誌」(昭和28年8月25日発行)に掲載の図面では配炭機桟橋やベルトコンベアと思しき設備は第四立坑よりも学校側(閉山時は第四立坑まで)に延びていて、
こちらの写真 に写る配炭機桟橋も第四立坑よりも学校側に延びています。
<図版は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載。>
閉山間際と思います。
<NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、『軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』、株式会社創元社、2015年、94・95頁>には「■軍艦島建物配置図-1952年頃-」が掲載されていますが、手書きと思われる建物情報も記載されています。