○貯炭場周辺

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

写真
《長崎港外端島ノ風景》  <所有絵葉書>
 貯炭場より三坑方向を望む光景かと思います。絵葉書表部分の通信欄の形によれば、明治40年から大正7年に作成された絵葉書のようですが、私としては大正初期の頃の光景ではないかと思っています。気づいた点を以下に記載させていただきます。
  • 絵葉書中央に写るのが第三竪坑櫓で、右側に写る大きな建物は発電所ではないでしょうか。

  • 大きな建物の右側に煙突がありますが、四角形の煙突のようです。
      (下の方の写真では丸形の煙突となっております。)

  • 発電所の少し先ぐらいから貯炭場に向かって、かなりの本数の線路が走っているようです。

  • 絵葉書左上部分には電線と電柱が写っております。



写真《長崎港外端島名勝 表海岸》  <所有絵葉書>
 閉山間際の頃の貯炭場は配炭桟橋が一本あるだけでしたが、この時代は配炭機の役目は炭車が行っていたようで、炭車が動き回るために複数の配炭桟橋があります。
 ちなみに、この絵葉書には、大正時代後半にあった第四堅坑の仮櫓や大正11年完成の上陸桟橋(クレーン式)の巻上設備らしきものも写っているようです。


写真
《三菱高島礦業所 端島坑新竪坑》  <所有絵葉書>
 第四竪坑のことが新竪坑と書かれており、第四竪坑櫓が完成したての頃の写真と思います。第四竪坑は、元々、揚炭を目的に設けられたものであり、第二竪坑にあった「二坑口桟橋」と同様の施設が設けられているようです。
 ちなみに、第四竪坑櫓の手前が貯炭場です。


写真《三菱高島礦業所 端島坑新竪坑》<所有絵葉書>の部分拡大
 第四竪坑のことが新竪坑と書かれており、第四竪坑櫓が完成したての頃の写真と思います。第四竪坑は、元々、揚炭を目的に設けられたものであり、第二竪坑にあった「二坑口桟橋」と同上段絵葉書からの部分拡大です。写真右端の高い構造物が気になります。また、下の数点の写真と見比べば、貯炭桟橋の設備は短期間の間にかなり激変しているようです。

写真《三菱高島礦業所 端島坑新竪坑》<所有絵葉書>の部分拡大
 もう少し拡大してみました。
 「大阪朝日新聞」(大正5年4月11日発行 第12,290号 )の「九州版」に、「高島炭礦」の紹介記事があり、記事の中にある坑外運搬についての記載と思われる箇所には「端島には自動昇降器が備へられ船積桟橋は高島と二子に各一基宛と端島に二基設けられてある」の記載があります。右端の建物は、もしかしたら、自動昇降器と思いますがいかがでしょうか。真偽の方は別として、同様と思われる建物が冒頭の絵葉書左側にも写っているようです。


写真
<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
 第四竪坑櫓は排気用(昭和10年8月切替)の構造に変更されているようで、《三菱高島礦業所 端島坑新竪坑》の絵葉書よりも若干、後年の撮影かと思われますが、こちらの写真にも上段写真の自動昇降器と思われる構造物が見えています。


写真
《三坑櫓より四坑を望む》  <写真は島の先輩より>
 あくまでも私の想像ですが、 製塩倉庫(旧発電所)前の汽鑵場跡 と思われる場所の状況からして昭和10年2月まで続けられた製塩事業の廃止後の光景で、貯炭桟橋は 閉山時の設備 ではないようですので、写真は昭和10・11年頃の光景ではないかと思いますが如何でしょうか?。

写真<写真は島の先輩より>
 こちらも四坑を望む光景ですが、製塩倉庫(旧発電所)らしき建物の横に大きな煙突が写っています。製塩倉庫(旧発電所)らしき建物の壁の模様?を見ますと、左右の写真は、ほぼ同時期の撮影のように思います。


写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 学校海岸付近にはクレーンも設置されており昭和6年埋立以降の光景かと、また、積込桟橋の形を見ますと昭和11年頃以前の光景かと思います。貯炭場内の配炭桟橋ですが、閉山の頃に使用していた1本の桟橋ではなく、複数の桟橋となっているようです。

 なお、<『婦人之友』、第三十巻 第十號、婦人之友社、昭和11年10月1日發行>に掲載されている 「全島鳥瞰圖」 の第四竪坑櫓周辺を確認しますと、閉山時に資材倉庫があった付近にも配炭桟橋の姿があり、その昔、貯炭場はかなりの広さだったようです。


写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 時期的には上段写真と同じ時期の光景かと思います。上段写真の右下部分には、護岸が大きく島の内側にくぼんでいる状態や、くぼんだ箇所の地面がなく穴のような状態が写っており大変気になっておりますが、こちらの写真左下の部分はその箇所の拡大板になろうかと思います。島の先輩からは、「穴ではなくて一段階低い地盤でここから海水をポンプで汲み揚げていたのではないかと思います。それが現在のブロアー室地下につながると思われます。」との話を聞きました。

写真<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 上写真の左下部分の拡大図になります。写真の一番下には、レールとその足場らしきものが見えます。
 昭和6年の埋立により、この部分は拡張されたかと思いますが、先に外側の護岸ができて、後から内部を造ったのでしょうか?。
 「阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)」では、この付近の写真として、「桟橋(1956) 台風12号で崩壊した船着場の床スラブと庇のコンクリート」と題された光景(写真625)が掲載されていますが、崩壊した地盤の下に大きな穴が開いています。また、写真547、626にも崩壊した地盤の下に大きな穴が開いている光景が写っています。


写真
<写真は島の先輩より>
 第四竪坑櫓及び積込桟橋周辺の光景になるかと思います。櫓の基礎周辺には、閉山時の二坑口桟橋に相当すると思える施設が見えますが、その昔、第四竪坑でも揚炭が行われていた時の施設ではないかと思います。昭和10年8月には、排気竪坑が第三竪坑から第四竪坑へと変更となりますが、写真には、閉山時にあった排気用設備と思える物も写っているようですので、昭和一桁の後半か、10年ぐらいの光景ではないかと思います。
 なお、こちらの写真では、天井はあるが側面の壁がない二坑口桟橋に相当すると思える施設と、未だ排気用設備が設けられていない第四竪坑櫓が写っています。



〔 貯 炭 場 今 昔 〕

写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 昭和11年頃以降に使用された積込桟橋の光景かと思います。写真下段には、閉山時の頃使用されていた配炭桟橋の姿が覗えます。


写真
《長崎港外端島表桟橋  長崎要塞司令部検閲済
  <所有絵葉書>

 上段の写真と同じ時期の撮影のようです。また、配炭桟橋の北側には、閉山時には無かった建物が残っているようです。


写真
<2013年撮影>
  <長崎市の特別の許可を得て撮影>

 配炭桟橋や積込桟橋の基礎等が残るだけとなっております。元々が貯炭の場所だったので空間が多い場所でしたが、昔を知る者にとって寂しい光景です。




写真
<出典:「婦人之友」第三十巻第十號(婦人之友社・昭和11年10月発行)>
 閉山時にあった配炭桟橋と配炭機らしき構造物が見えますが、工事中か、完成しているのかは分かりません。また、その手前に鉄材が吊されていますが、第二立坑櫓の建築の材料でしょうか?。なお、写真下には、製塩工場の跡地らしき場所に水槽らしき構造物があります。

写真
<出典:「寫眞週報」178号(昭和16年7月23日発行)>
 スコップを持って炭の山を登ってる方が見えます。何をしている光景かと思っておりましたら、島の先輩から、地下ベルトコンベアーに石炭を落とすポケットに石炭を入れるため、道具のスコップを持ってポケットに向かっている光景との話を伺いました。

写真
<出典:「寫眞週報」178号(昭和16年7月23日発行)>
 当時の配炭機と配炭桟橋が写っています。



写真
<写真は島の先輩より>
 この写真の左上に写る65号棟ですが、学校側部分がまだ9階建てとなっておりませんので、昭和20年代中頃の写真でしょうか?。
 また、写真中央に聳える櫓が第四竪坑櫓ですが、櫓の基礎部分には、その昔、ここから揚炭を行っていた頃の施設と思われる閉山時の二坑口桟橋に相当する施設がまだ残っているようですし、櫓右下に写る配炭桟橋ですが、この頃はまだ、竪坑櫓の真横ぐらいまで桟橋が延びているようです。
 なお、「三菱高島礦業所 端島坑概要 (昭和12年10月)」 の「選炭及積込設備」の「貯炭及積込設備」の項には、「貯炭場の貯炭容量は約20,000瓲にて選炭機よりの洗粉炭はベルトコンベーヤーにより貯炭桟橋及デストリビユーターを経て貯炭場に運び貯炭は地下二條のベルトコンベーヤーにて搬出船積桟橋及デストリビユーターにより船積を行ふ。能力は貯炭,船積共250T/hr なり。」との記載があります。


第二竪坑櫓?からの光景 新旧比較
昭和20年代半ば頃昭和43年頃
写真<写真は島の先輩より>
 小中学校が昔の校舎で、2号棟・3号棟も昔の建物みたいです。また、65号棟の学校側部分が9階建てとなっていますが、屋上の様子を見ると、幼稚園が出来る前と思いますので昭和20年代半ば頃の光景かと思います。
 ちなみに、こちらの写真に写る65号棟横の煙突は65号棟よりも高くて黒煙が出ています。
写真《端島砿業所中心部(昭和43年頃)》
<写真・説明は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 閉山時に、ドルシックナーの左側にあった炭車修理工場等の場所は、貯炭場と比べて一段高い場所にありました。また、第四竪坑櫓の手前左側部分ですが、左写真では貯炭場となっているようですが、こちらの写真では建物が存在しています。
 ちなみに、こちらの写真に写る65号棟横の煙突は左写真の頃よりも低くなり65号棟9階と同じぐらいの高さとなって煙も出なくなっていますが、昭和41年の石炭汽缶から重油汽缶に切替えがその要因になるのではないでしょうか? 。


写真《長崎港外端島二坑のヤグラ  長崎要塞司令部検閲済》  <所有絵葉書>
 第二竪坑櫓の姿ですが、滑車が最高位にありますので、初期の頃の姿と思います。
 なお、この写真では、第二竪坑櫓とその前に写る円筒形の構造物の間に、縦に平べったい建物が写っておりますが、先輩によりますと、竪坑櫓ケージの予備機を保管していた建物とのことでした。

写真<写真は島の先輩より>
 第二立坑櫓は最終バージョンですが、閉山間際にあったドルシックナーが写っていないので、昭和中頃の写真ではないでしょうか。また、写真の持ち主の方とは別の先輩によりますと、写真中央にある円筒形のコンクリートの構造物は沈殿槽で、沈殿槽上の周囲にはオーバー水が流れる溝があり、固形物は中央部に沈降する仕組みとのことでした。また、ドルシックナーと違う点は、水の入口と出口が近いので、沈降が早い場合(分離)は良いが軽いものには適さない反面、場所を取らない利点があるとのことでした。
 なお、昭和20年代後半の坑外図を見ますと、円筒形の設備の位置は、コニカルタンクと記載されています。そして、タンクの真下の施設は、浮選室で、その手前は、沈殿池とありました。


写真
<村里 榮 氏撮影>
 手前の横に延びる桟橋が配炭桟橋で、護岸をまたぐ格好で海に突き出しているのが積込桟橋となります。「三菱鉱業株式会社高島礦業所概況案内(昭和40年4月)」には、「精炭は巾30吋のベルトコンベアーにより貯炭場に運搬され、貯炭場の地下ベルトコンベアーを経て船積みされる、積込設備としては300T/Hの設備1基を有する。尚貯炭能力は4500屯程度である。」との記載があります。


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