〔 最終の端島神社 〕
<撮影予想時期:昭和41年以降>
<写真は島の先輩より> 3号棟から望む光景で、神社の手前には2号棟の塔屋部分が、神社の左右には56号棟・65号棟・学校が写っています。なお、65号棟横の煙突ですが、
煙突を使用していた頃 は
保育所・保育園 よりも上まであった煙突でしたが、写真に写る煙突は上部がなくなって保育所・保育園と同じ高さとなり煙も出ていませんので、石炭汽缶を重油汽缶に切替えて、この煙突を使用しなくなった昭和41年以降撮影の写真のように思います。
なお、大変分かりにくいのですが、境内の西側地面には小さな突起物が数カ所に見えていてその上には何もありませんが、島の先輩に伺いましたところ、昔は、その突起物の上にはベンチが設けられていたとのことで、別の先輩からも、ベンチが写っている写真を見せていただきましたが木製のベンチが3台ほどあったようです。
(私が子どもの頃、突起物の上には何もなく丸い穴が開いていただけなので、昔は、旗を立てる台でも設けられていたのかなと思っていました。)
あと、拝殿の東側には、床が板張りで行き止まりの場所があり日当たりや景色もいいので、憩いの場所となっていました。
〔 写真による端島神社の変遷確認 〕
端島神社が写っている写真にて、神社の変遷を確認してみましたところ、神殿や拝殿の再建以外にも鳥居が何度か建立されているようで、下記のとおり「(鳥居1)」と「(鳥居2)」の表現により鳥居の違いを説明させていただきました。
(鳥居1)
・・・
笠木と島木及び貫が角張っており、笠木と島木に反りがある鳥居
(鳥居2)
・・・
笠木と貫が円柱である鳥居
<撮影予想時期:大正後期>《 (長崎港外)端島金比羅神社ヨリ双子高島ヲ望ム Futago Takashima From Kompira Shrine, Hajima. 》 <所有絵葉書> 絵葉書にある「長崎遊覧紀念 13.6.16」のスタンプから、大正13年かそれよりも少し前に撮影された写真を使用した絵葉書かと思います。
こちらの絵葉書の鳥居ですが、上段絵葉書の頃とは違って(鳥居2)のようで、『軍艦島実測調査資料集』の巻頭にある「大正14年の日給社宅(大正7年・1918建設)と右上に旧14号棟がみえる(砿業所のアルバムからコピー).」と説明がある写真に写る鳥居と同じ鳥居のように思います。
ちなみに、この頃は、まだ、慰霊碑や忠魂碑は建立されていないようで、神社の手前には当時の2号棟が見えていて、神社右下の建物群の中には
当時の病院らしき建物も写っているように思われます。なお、閉山の頃、学校があった部分の埋め立てはまだ実施されていない頃になります。
<撮影予想時期:昭和2年頃>《 長崎港外端島名勝 金比良神社 》 <所有絵葉書> 鳥居の左側にあるのが先代の端島神社で
昭和10年秋に焼失しますが、その後、昭和11年に新神社が建立されるまでの間は、19号棟屋上に仮宮を設けていました。
新しい神社になってからの昭和10年代のことですが、島の先輩の話では、忠魂碑の右には砲弾があり、金毘羅さんで写真を撮る時は、その砲弾と並んで写っていたそうです。
ちなみに、閉山の頃には、神社の下から17号棟屋上へ橋が架けられていましたが、昔は、その橋の神社側には水タンクがあったそうで、一番左側に写っている物がそれでしょうか。
<撮影予想時期:昭和2年頃>《 長崎港外端島名勝 金比良神社 》
<所有絵葉書> より部分拡大
上段絵葉書の鳥居付近を拡大しましたが、よく見ると、鳥居が前後に重なっているようです。私としては、大正後期にあった(鳥居2)の手前に、昭和2年に(鳥居1)が建立された時の光景で、新旧鳥居の交代の頃の撮影ではないかと思いますが如何なものでしょうか?。
<撮影予想時期:昭和2年頃>《 長崎港外端島名勝 金比良神社 》
<所有絵葉書> より部分拡大
絵葉書の忠魂碑付近を拡大しました。
プログ「廃墟徒然草 -Sweet Melancholly-」をご覧ください。日給社宅の屋上に残る砲弾が写っていますが、島の先輩によりますと、プログに写る砲弾が、忠魂碑の右にあった砲弾ではないかとのことで、砲弾の下から伸びている四角い棒状の部分は、基礎に埋められ、真直ぐ上を向いて立っていたそうです。もしかしたら、写真に写る忠魂碑の右側にある細長い物が砲弾になるのでしょうか?。
なお、私にはこの砲弾の記憶はないので、別の先輩にもお伺いしましたところ昭和30年頃まで神社にあったのではないかとのことで、小中学校校舎が
6階建ての頃のため昭和30年代に入ってからの撮影と思われる<『カメラ芸術』、東京中日新聞、昭和37年2月、88・89頁>に掲載されている端島神社の写真にも横たわった砲弾らしき姿が写っているようですので、昭和30年代迄は神社にあったように思われますが、プログと本の砲弾とは形に違いがあり別物のような気もしています。
<昭和10年>
昭和10年に端島神社が焼失した際の写真は
こちらをご覧ください。
<撮影予想時期:昭和10年または昭和11年>《 再建工事中の端島神社 》 <写真は島の先輩より> 昭和10年秋に焼失した後、昭和11年に新神社が建立されますが、まだ、写真に写るお社は神殿のみで拝殿の姿はありません。また、人工地盤?を設けて、境内を広くする工事も行っているようです。
なお、鳥居は閉山の頃と同じ(鳥居1)が1基のみとなっていますので、鳥居(日給19号棟屋上にその昔あった鳥居は除く。)の変遷を大まかに考えてみますと、以下のようになるかと思います。
大正初期 : (鳥居1) → 大正後期 : (鳥居2) → 昭和2年頃 : (鳥居1)と(鳥居2) → 昭和2年頃より後 : (鳥居1)
<撮影予想時期:昭和11年><写真は島の先輩より> 写真左上の本来の神社の部分はまだ工事中で、19号棟屋上に仮宮を設置している時の写真です。山神祭を行っている姿と思ったら、第九回全国安全週間(主婦ノ安全祈願)昭和11年7月1日の時の姿ではないかとの情報がありました。
島の先輩に伺いましたところ、山神祭の時は、神社の周囲は勿論、お通りになる道路には、笹竹が4~5mおきに立てられ、その間には、細い藁縄のしめ縄が張られてたとのことで、断定は出来ないが、安全週間(7/1~7/7の一週間)の安全祈願祭の時の写真ではないかとのことでした。
そういえば、私の思い過ごしかもしれませんが、主婦と子どもが目立ちます。
<撮影予想時期:昭和11年から昭和20年代中頃の間><写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より> 端島神社再建後の光景ですが、写真右端の2号棟が木造ですので、遅くとも昭和25年頃までの撮影かと思われます。
なお、鳥居の内側には慰霊碑らしき姿が写っていて、その姿は先代の端島神社が
昭和10年秋に焼失した時の写真にも写っているようですが、「大正後期」や「昭和2年頃」の写真では確認することができませんので、慰霊碑らしき構造物は昭和初期の建立になるのでしょうか?。
もし、慰霊碑だったとした場合のことですが、<軍艦島を世界遺産にする会、『軍艦島 失われた時を求めて・・・・・。』、(2003)、p.85>には、閉山時にあった(現在、残っている)慰霊碑は昭和36年に建てられた旨の記事が掲載されていますので、左写真に写る慰霊碑と閉山時にあった(現在、残っている)慰霊碑とは別の慰霊碑になるようです。ちなみに、
昭和20年代後半から30年代中頃までに撮影されたと思われる写真や、<『カメラ芸術』、東京中日新聞、昭和37年2月、88・89頁>に掲載されている端島神社の写真には、どちらの慰霊碑も写ってなく、慰霊碑がなかった頃もあるようです。
〔 端島神社今昔 〕
<撮影予想時期:昭和11年から昭和20年の間>《 端島金比良神社 長崎要塞司令部検閲済 》
<所有絵葉書> 光景的には上段写真と同じ光景ですが、こちらの絵葉書は「長崎要塞司令部検閲済」となっていますので、昭和11年から終戦までの間の撮影になるように思います。
なお、こちらの絵葉書では、鳥居内側の慰霊碑らしき姿もよく見えます。
<2013年撮影> <長崎市の特別の許可を得て撮影> 直ぐ上の絵葉書では大きな拝殿が見えていますが、現在では崩壊してしまい神殿のみの姿となっていて、鳥居の上部も崩落しています。
また、神社右側の2号棟が、木造から鉄筋コンクリート高層住宅へと建て替わり光景に変化があっておりますが、一番の変化は神社下の木々ではないでしょうか?。人が住んでいた頃は低木がほんの数本植えられてる程度でした。
<2013年撮影> <長崎市の特別の許可を得て撮影> 閉山後、鳥居上部の笠木、島木や神額が落下し、神額は割れていくつかに分かれていますが、どうにか「端島神社」の文字が読める状態で残っています。
〔 建立時期 〕
(各種情報)
- <「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名高嶋、測量年1901(明34)>に描かれている高島には「神祠」の地図記号がありますが、同じ地図の端島では見当たりませんので、明治34年の時点では端島に神社はなかったのものと思っています。
- 建てられたのが明治末年か大正2年とされる 旧14号棟が完成間近と思われる姿 で写っている絵葉書には、現在地に端島神社が写っています。
- 端島の初代と言い伝えがある御神輿には「明治四十四年十二月吉日」の日付等が書かれていて、また、昔の神社の旗には、「金毘羅様の紋(○に金)」や「端嶋神社」や「「寄進 明治四拾五年三月」等が書かれています。
(現在までの把握状況)
残念ながら建立時期が書かれた資料にはまだ巡り合えてなく、現在、私が知り得ている上記情報から、明治時代の末頃が端島神社における重要な年ではないかと思っています。
〔 ご神体 〕
(各種情報)
- <加地英夫著、『私の軍艦島記 端島に生まれ育ち閉山まで働いた記録』、(株)長崎文献社、2015年、162・163頁>には、「端島神社のご神体は、天照大神、海の神の金毘羅権現(子どものころは、端島神社のことを「こんぴらさん」と呼んでいた)、のぼりもたてられていたので山の神である大山祇の三体だと思われていました。しかし、閉山のとき大山祇の本山にご神体をお返しにいったところ、そちら(端島神社)には祭られていないといわれたので、そのままもち帰ったとのことでした。では、いったいどちらのご神体だったのでしょう? 長崎県の神社庁関係者が調べてくださったところ、学問の神様である菅原道真公が祭られていたとのことでした。」の記載があります。
- 上記の記載とは逆に、端島神社には「大山祇」が祭られていたという発言をなさる方も、島民や島民外にいらっしゃいます。
- 「端島の二代目で最後まで使用と言い伝えがある御神輿」(大正拾五年謹製)の屋根には三つのご神紋がございますが、一つは「○に金」のご神紋、もう一つは「梅鉢」らしきご神紋と「不明」のご神紋です。つきましては「梅鉢」らしきご神紋があることから「菅原道真公」が祭られていたことは確かなことではないかと思いますが、 「端島の初代と言い伝えがある御神輿」(明治四十四年調製) においても「梅鉢」らしきご神紋と「不明」のご神紋を拝見することができます。(初代の御神輿については、現在、長崎市野母崎町高浜にある「八幡神社」の御神輿となっていますので、端島から移される際にご神紋が変わった可能性もあるかと思います。)
- 九大コレクションにて資料紹介されている『全国鉱山と大山祇神社(第一輯)』(国弊大社大山祇神社々務所、一九四〇年)には、「全国鉱山における大山祇神社」や「大山祇神社御神璽奉斎ノ全国鉱山炭礦(昭和十四年十二月現在)」の記載がありますが、端島や高島の記載は見当たらないように思われます。
- 端島神社のご神体との関連性は書かれていませんが、<伊藤千行-写真 阿久井喜孝-文、『軍艦島 海上産業都市に住む』、(株)岩波書店、1995年第1刷 2006年第4刷、30頁>に掲載の写真説明文には、「昇降口には安全祈願のために山神さまが祀られていた。」の文章が含まれています。
- 高島神社では 「昭和30年に瀬戸内海大三島の祭神、我国総氏神、大山祇神の分霊を奉戴し合祀する。」 の記録が残っていますので、端島神社に「大山祇神」が祀られていた場合も最初からではなく、後年になってから祀られた可能性もあるかと思います。
〔 閉山後の光景 〕
←<2004年撮影> 西側からの撮影です。手前の建物が59・60号棟で、その先に神殿だけが写っています。昭和11年建立なのに、よくもまあ、この姿で建っているものだと思います。
↑<2004年撮影> 左写真とは反対側の東側からの撮影です。
←<2014年撮影> 2014年元旦、上陸観光船からの撮影です。海が荒れていたので室外に出ることができずに窓越しの撮影です。
私は端島に行った際には最初に端島神社を見るようにしていますが、神殿のことが気が気でなりません。一日も長く、その姿を保って欲しいと願っております。
←<2016年撮影> 神殿はどうにか残っていますが。拝殿の姿は見ることができず、また、鳥居も笠木、島木や神額が落下しています。
←<2020年撮影> 西側からの撮影です。写真では分かりませんが、神殿を支える柱はかなり痛んできています。