〔 第二立坑(当初) [深さ(m)199 大きさ(m)3.9×3.0 木枠] 〕
| 深さ・大きさは、<三菱鉱業セメント株式会社総務部社史編纂室編集、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント株式会社、昭和51年、712頁>より |
《南部運動場での従業員慰安運動会記念写真。各職場の応援旗が見える。》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
写真中央に写る長屋の屋根の上に、小さく、第二立坑櫓の姿が見えています。おそらくは、昭和元年から5年ぐらいの間の時期に撮影された写真と思います。
- 明治26年:試錐を行い開削着手
- 明治28年:落成 明治期の稼行炭層は「胡麻五尺層」
以上、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、194,207頁>より
- 明治二十六年島の東南部に第二竪坑を開削し、深さ五百三十呎にして第二層胡麻五尺炭層に着せり。
- 二十七年十二月第四層五尺炭層及最下一丈岩層に着せり。
以上、<第二回関西九州府県総合水産共進会長崎県協賛会、『長崎県紀要』、明治40年、135頁>より
- 第二坑は高四十三呎六吋徑十四吋の杉赤身角材を用ひ、徑八呎の滑車を備へ
以上、<高野江基太郎、『増訂再版日本炭礦誌』、明治44年、第二編94頁>より
〔 第二立坑(掘り下げ後) [深さ(m)636 大きさ(m)6.0φ] 〕
| 深さ・大きさは、<三菱鉱業セメント株式会社総務部社史編纂室編集、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント株式会社、昭和51年、712頁>より |
昭和 4年 | 掘り下げを本店具申 |
昭和 4年 9月 | 通気変更及び坑外設備工事から開始 |
昭和 5年 1月 | 第二立坑底から試錐開始 |
昭和 5年 5月 | 仮櫓等の準備が整い立坑開削に着手 |
昭和 9年 5月 | 立坑開削終了 |
昭和10年 8月 | 排気立坑を従来の第三立坑から第四立坑に切替 |
昭和10年12月 | 立坑巻完成 |
昭和11年 9月 | 人員昇降、石炭巻上開始 |
<以上、『高島炭砿史』三菱鉱業セメント(株)(1989)p293,294,496,497より> |
昭和11年 9月19日 | 三菱端島大竪坑,海底2000尺,6ヵ年の工事を終え完成. |
<以上、「筑豊石炭礦業史年表編纂委員会、『筑豊石炭礦業史年表』、田川郷土研究会、昭和48年11月30日、386頁」より> |
昭和12年 5月21日 | 出炭開始 |
昭和24年 | 捲座、櫓改修 |
<以上、『”はしま”閉山記念特集号』より> |
第二立坑の掘り下げの理由については、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、714・715頁>に、「端島においては明治16年より大正12年に至る間に4本の立坑が開鑿された。同砿は炭層傾斜が45°以上あって,採炭区域の深部移行度が早く,坑底より斜坑によって展開したため能率は次第に低下し,通気の困難性も増加する一方であった。この行詰りを打開するため,昭和5年7月旧第二立坑の改修追鑿工事に着手した。」の記載があり、また、特記事項として、「掘鑿・築壁交互開鑿法を採用」、「築壁にコンクリートブロックを使用」、「鑿孔にはダイヤモンドまたはハードメタルの小型試錐機を使用」等の記載があります。
なお、上段記載の一覧によれば、昭和24年には、捲座改修( 巻上機切替 )や、櫓改修(
櫓最上部に薬研の取替を容易にするための構造物設置 ・
櫓を支える斜めの柱を2本から4本に増設 )が行われていて、第二立坑(掘り下げ後)にとって大きな節目の年となるようです。
《フライホイルの荷揚げ》
<写真は島の先輩より>
《フライホイル(直径3m)の荷上げ》 | <”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載> |
【 二子発電所からの受電不能による部分水没と復旧作業 】
<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、343・344頁>には「終戦直前の二子発電所被爆による送電不能に陥り,二坑立坑巻揚機・坑底主要ポンプの運転も不可能となり水没の危機を迎えたが、従業員必死の努力により二坑底ポンプ座の確保が出来た。立坑内のタラップ600mを昇り降りすることさえ難しいのに,重さ40kgの土のうを背負い,坑口から坑底ポンプ座まで運び,入口に積重ねる作業を敢行したことは端島砿の歴史の上でも特筆大書されるべきもので,一度水没すると,端島砿の復旧が不可能に近いことは明らかであり,発電所の早期復旧とともにポンプ座を守りえたことは,誠に幸いであったの一言に尽きるものである。」の記載があり、<『高島炭砿史』、312頁>では「9月4,5日にわたる豪雨で発電所が再び発電停止となったため,-605mに位置する二坑底ポンプ座が数時間で水没の危機にさらされた時,○○○○係員(□□□□)が指揮して,セメント,グリ石,赤土,木炭の袋を背負い,立坑を下ってポンプ座まで溜水の中を運び,ポンプ座前にダムを築き,浸水を防ぐとともに,木炭を焚いてポンプモーターの絶縁不良を防止するなど非常に困難な作業を続けてポンプ座を守った果敢な行動は,端島水没の危機を回避したもので特筆されてよい。」の記載があります。
<注:係員のお名前や関連情報は○や□にて置き換えさせていただきました。>
また、<『高島炭砿史』、344頁>には、水没の範囲やその後の復旧時期について「被災時の稼行レベルは-710m(5盤下)で,
-605m水準の3盤下直下まで すべて水没した。このため,復旧対策としてまず
追水を鋭意進め,昭和21年2月に第4盤下,同10月に第5盤下,22年2月には第6盤下まで
追水を完了した。」の記載があり、引き続き、復旧工事の困難さについて以下の記載があります。
- 坑道の整備は,第4~6盤下とも高落が甚だしく,復旧には多大の人力と日時を要した。
- 坑内水温が40℃と高く塩水のためレール,パイプ,炭車等の鉄類の錆が甚だしく,その容積が倍増しているので,その撤収は困難を極めた。
- 復旧作業の際,特に留意したのは揚水によって通気を確保すると逆に自然発火が起りやすく,また,ガスは各所に停滞しているので,災害を惹起しないように細心の注意を払ったことであった。
端島が昭和49年まで炭坑の島であり続けることができたのは、非常に困難な作業に立ち向かった島の先輩方がいらっしゃたからこそと敬服いたしています。
《昭和24年改修前の姿》 | <”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載> |
上段滑車?の上には構造物が存在しておりません。また、櫓を支える斜めの柱は2本しかありません。管理人としては、初期バージョンと呼ばせて頂いてます。
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より> 30号棟屋上からの光景です。
《改修工事中の2坑捲ヤグラ》 <写真は島の先輩より> 上段の「昭和24年改修前の姿」や「30号棟屋上からの光景」の写真に写る第二立坑櫓においては、上の段の薬研(フライホイール)が最高位に位置し、その上部には何の構造物もありませんが、こちらの写真を見ますと、上の段の薬研の場所から、更に櫓を高くする工事が行われているようです。
《改修工事中の櫓》 | <”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載> |
櫓を支える斜めの柱ですが、改修前(上段写真)では2本ですが、改修後(下段写真)では4本に増えることとなります。
左の写真は、ちょうど4本目の柱を設けるときの工事のようで、櫓の最上部を見ますと、上の段の薬研の場所から更に櫓を高くするための柱が見えるようです。
ついては、櫓を高くする工事と櫓を支える斜めの柱を増やす工事は同じ時期に行われたものと思われますが、複数の島の先輩から「第二立坑当初の2本の支柱が火事の熱により曲がったため支柱を4本に増やした。」とのお話を伺っています。
《完成間近い 2坑捲ヤグラ》 <写真は島の先輩より> 真上の写真よりも、若干、後の光景です。上の段の薬研の場所から、更に櫓を高くする工事も進んでいますし、立坑櫓を支える支柱の数も増えています。
<写真は島の先輩より> 上の段の薬研の上部に構造物が完成し、また、支柱の本数も増えて、閉山の頃と同じ、第二立坑櫓の最終形が完成します。
島の先輩によりますと、薬研の上部の構造物は、薬研の取替を容易にするためのものであり、実際に、取替えが行われたこともあるそうです。また、薬研の一番外側の輪の部分は、ロープとの摩擦で溝が磨耗するので、取替えが容易に行えるように薬研の一番外側の輪の部分は四分割できるとのことでした。
ちなみに、ケージをぶら下げているロープが捲座に向かう角度については、左側写真までは急な角度ですが、右側写真から以降の写真では角度が緩くなっているようで、これは捲座の場所が、第二立坑掘り下げ当初は30号棟の直ぐ東側だったのが
捲揚機を切替えた際に、それまでの捲座の場所から南部方面に少し移動した影響のように思います。
《昭和30年8月13日の櫓狂直し扛上作業時 櫓補強トラ張観測用スターフ(上床)》
<高比良勝義氏(元島民)撮影> 上の段の薬研の上部に構造物が完成しています。第二立坑櫓の最終形です
《s31.8》 <高比良勝義氏(元島民)撮影>
《第2竪坑 基礎工事》 <写真は島の先輩より>
《第2竪坑 基礎工事》
<写真は島の先輩より> 左写真から若干角度を変えて、また、少し引いての撮影のように思います。
《昭和24年 第2竪坑改修工事》 <写真は島の先輩より>
《昭和24年 第2竪坑改修工事》
<写真は島の先輩より> 写真中段右端には鉄骨の柱のうような物が見えていますが、下段写真の《2坑捲座建設工事》に写る柱でしょうか?。
《2坑捲座建設工事》
| <”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載> |
後方に見える木造家屋は旧4寮
《2坑捲ドラムの組立工事》 <写真は島の先輩より>
《端島堅坑捲座 高島砿業所》
<所有絵葉書>
【 第二立坑捲座上屋外壁復旧 】
<写真1>〔再掲〕
<写真は島の先輩より> 昭和31年8月16日の台風9号にて、第二立坑捲座上屋も被害を受けますが、その時の復旧状況について書かせていただきます。
30号棟の右側に二つ屋根の第二立坑捲座上屋があり、その右側には台風9号にて倒壊する
電気営繕工作事務所も写っています。
ちなみに、この写真を撮影する際の第二立坑捲座上屋の外壁の色は白色で、左側屋根の下には窓が二カ所に設けられていますが、復旧後となる
閉山間際の第二立坑捲座上屋の外壁は黒色で、左側屋根の下にあった窓はなくなっています。
<写真2>〔再掲〕
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
台風9号では護岸の崩壊によりかなりの土砂が流失して、島内に埋もれていた旧護岸がさらけ出され、旧護岸の一部も崩壊して電気営繕工作事務所も倒壊しています。
写真左上に第二立坑捲座上屋の姿が見えていますが、外壁の状況は<写真1>の状況と違いはないように思われます。
ちなみに、写真手前の左側の方にプールがありました。
<写真3>〔再掲〕
《 破壊された事務所。s31.8.19 》
<高比良勝義氏(元島民)撮影> <写真2>の第二立坑捲座上屋の外壁と状態がほぼ同じようで、<写真3>と<写真2>は同時期に撮影されたように思います。
<写真4>〔再掲〕
<高比良勝義氏(元島民)撮影> <写真2>の旧護岸の崩壊箇所には復旧工事の足場?が設けられていますので、<写真2>よりもある程度時間が経過したときの撮影で、<写真4>は<写真2>よりも後の撮影となります。
なお、第二立坑捲座上屋の壁面にも復旧工事のためでしょうか、足場?が見えています。
また、この時までは左側屋根の下の窓は残っているように思われます。
<写真5>〔再掲〕
<高比良勝義氏(元島民)撮影> <写真4>の旧護岸の復旧箇所は工事が完了して足場?が外され、散乱していた瓦礫も綺麗になくなっています(波に流された?)。なお、第二立坑捲座上屋の左側屋根の下の窓がなくなっているようで色も黒色に変わっていますが、右側屋根の外壁は黒色と白色の斑模様状態となっています。
閉山間際の第二立坑捲座の外壁は左右の屋根どちらの下も黒色となっていますので、この写真は復旧途中の光景のように思いますが、途中なのに壁面部分に足場?が見えなくなっているのが気になります。
<写真6>〔再掲〕
《 工作工場附近。s31.8.19 》
<高比良勝義氏(元島民)撮影> <写真5>の第二立坑捲座上屋の外壁と微細な違いはあるようですが、窓がなく壁面の色も同じ状態のようですので、<写真6>と<写真5>は同時期に撮影されたように思います。
なお、<写真3>の《 破壊された事務所。s31.8.19 》と、こちらの写真は双方ともs31.8.19の撮影となっていますが、こちらの写真の方が、かなり後の撮影の様に思います。
<写真7>〔再掲〕
<高比良勝義氏(元島民)撮影> 右端の建物が第二立坑捲座上屋のようで、外壁が黒色と白色の斑模様状態となっています。よく見ますと、白い外壁の上に黒いトタン?のような物が貼られているように思われます。
<写真は島の先輩より> 二坑口桟橋の光景です。
<写真は島の先輩より> 櫓内のケージの光景です。島の先輩によりますと、炭車の場合、各段に2函で計4函の炭車が載せられるとのことでした。
ちなみに、「三菱高島礦業所 端島坑概要 (昭和12年10月)」 の捲揚設備のケーヂ」の項には、「ダブルデツキにて各デツキには 1kt 炭車 2 臺 1 ケージに 4 臺を載す。自重を減ずるため側板及蓋に軽金属を使用しロープとの連結にはチエーンを用ひずロツド及シヤツクルを使用しチエーン製作上の不安を除きたり。」の記載があります。
<写真は島の先輩より> ケージの光景ですが、炭車ではなく人が乗っている光景です。島の先輩によりますと、上下2段となっており、定員は25人×2段の計50人とのことでした。
《第2竪坑で入坑》 <写真は島の先輩より> ケージの上下2段に人が乗っています。この写真の拡大版では「つり革」があるのが分かりますが、島の先輩にお伺いしましたところ、最初の内はつり革があったが、その後、作業に支障があるので取り外したそうで、その時期はおそらく昭和30年ぐらいで、形もつり革というよりも鉄製のリングとのことでした。
<昭和37年撮影>
| < 出典:国土地理院ホームページ「地図・空中写真閲覧サービス」( https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=556743 )
1962/05/30(昭37)撮影写真から二坑口桟橋周辺の部分拡大を作成 > | |
赤色の矢印の先に斜め横向きに位置しているのが二坑口桟橋で、写真右上に位置しているドルフィン桟橋から、大まかな場所がお分かりいただけるかと思います。また、ドルフィン桟橋の下側に二隻の小船が荷揚げのために停泊していますが、下の船の下の端ぐらいから山道付近まで延びる設備ですのでかなりの大きさとなりますが、ニ坑口桟橋の中央付近には二坑口桟橋に上り下りする階段通路が、ニ坑口桟橋の山道付近には第二立坑櫓が見えています。
<加地英夫著、『私の軍艦島記
端島に生まれ育ち閉山まで働いた記録』、(株)長崎文献社、2015年>によりますと、「二坑口桟橋」の説明に、「高さ6メートルの鉄骨支柱に支えられた幅15メートル長さ57メートルと地面より一段高いところに設けられた炭車の操車設備。海上までのびており、形状が港の桟橋と似ていたことから桟橋と呼ばれるようになったといわれる。」(以上、74頁)、「二坑口桟橋の新設(昭和28年) 坑内の機械化によって増加する出炭量に対応するためニ坑口桟橋施設が改善されました。以前の桟橋は昭和10年に製作、組みたてられたもので、既に老朽化しており、昭和18年の火災の影響による変形、地盤の変位もあり、柱の傾斜がはなはだしくなったので桟橋を新設しました。」(以上、84頁)や「ケージに炭車をのせて地上まで捲き揚げて運びます。炭車は二坑口桟橋のレールにかみあわされると空炭車によって押し出され、
選炭のために桟橋の原炭ポケットの上でチップラーによって反転し、原炭ポケットに石炭を落としたあと、外側のレールを自走装置でケージ入口側にもどってまた、坑底にさげられます。」(以上、73頁)の記載があります。余談であくまでも私が知る範囲ですが、<『週刊朝日』、朝日新聞社、昭和37年4月27日発行、通巻2236号>に掲載されている2ページに亘る島全体の航空カラー写真では、ニ坑口桟橋の大きさや構造がよく分かるのではないかと思います
なお、端島にあった他の立坑櫓では、第四立坑櫓にも揚炭を行っていた頃に同じような構造物があり、
《三菱高島礦業所 端島坑新竪坑》や
《長崎港外端島名勝 新捲機械》の絵葉書にてその姿を見ることができますが、第三立坑にて揚炭を行っていた頃と思われる
絵葉書では、それらしき構造物は見えないようです。
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
昭和31年の台風被災時の光景と思いますが、写真上段の部分にあるのが二坑口桟橋で、地表よりも高い所に平たい部分があって、炭を降ろしたりや操車のために炭車が移動していました。